2018-

目標の建て方について

  • 能力の上限を遥かに超えた目標を「目標」としない。(ここでいう「能力の上限を遥かに超えた目標」については、昨年までに建てたものの、結局達成しなかったような全ての目標が該当する、と考える。)
  • 理念的到達点を目指す場合、全てそれに近似した道のりとなるような量化目標に置換して、それを「目標」とする。
  • 量化目標はGoogleスプレッドシート/GoogleKeep/SimpleNote/iOSメモ/その他プレーンテキスト等で、csv形式でいつでも再処理を掛けられる形で管理する。
  • 量化された目標は、「達成目標」ではなく「慣習目標」とする。慣習化を目標とするものが幾つかコンビネーションとして組み合わさった結果として、無理なく「達成目標」が満たされるものとして、「慣習目標」の方を操作してゆく。したがって、「慣習目標」が達成されないときから「達成目標」について思い悩まないこと。【慣習先行達成後続の原則】
  • 開示可能な部分と開示の難しい部分とを分けつつ、開示の難しいものを常に意識する。文面等で開示不可能だからといって失念してはならない。

2018目標(上掲原則を採用)

  • しごと系列
    • しごとa(前半中に校了
    • しごとb:理論系(併せて、関連論文等消化)*1*2
    • しごとc:実証系(併せて、関連論文等消化)*3
    • 【結果目標】貯蓄+XX万円
  • 生活系列
    • リズナートレーニング:新人メニュー*4
    • ランニング:週2回(45-90分)
    • 二畳合気道:週1回
    • 瞑想的時間の確保:週2回以上(10-60分)
    • 睡眠:2300-0700
    • 豆/野菜/ヨーグルト/漬物等、日々の腸内環境を改善する食事、200日以上
    • 【結果目標】XX.0kg以下を達成
  • 趣味判断系列
  • 進行度を問わないもの

その他

今年もよろしくお願いいたします。

*1:最終的な作業規模によるが、論文50+,著作10+を目安とする

*2:オンライン読書会成立: 1クール以上、を含む

*3:最終的な作業規模によるが、論文50+,著作10+

*4:

*5:

*6:[asin:4274067106:detail]

*7:Netflix,AmazonPrime,Hulu等活用を目指す

*8:特に、ハヤカワSFのKindleを買っているため、それを中心に消化する

*9:[asin:4410207830:detail]

*10:[asin:4411005328:detail]

2017.12.31

 自分のものでないプロジェクトでとりあえず生きてゆけてしまうことの、相対的なぬるゲー感を経験した一年だった。
 自分の生涯を賭して行うようなプロジェクトに関わっているときのような魂の震えを追い求めなくとも――持続性を忘却すれば――それなりに生きていけてしまう。自分が考えつくよりも先に出来ているプロジェクトには、かなり高い蓋然性でそれなりの合理性や狙いが付随しているし、それに知的興奮を覚えることも容易だ。それに、そうしたプロジェクトの重要性を他人に魅力的に紹介することも重要になってくる。だから、大きな仕事を為している人の部分的代弁をしようと試みるだけで、時は過ぎていく。
 何かに対して真面目であるポーズを取る気概というか、興奮のような気分も細り、基本的には、出力の弱い道ゆきとなった。適当すぎる、と言われても、ここ何年も、見る人が見れば演るべきことを為していない遊び人のようにしか見えなかったのだろうし、そうなれば excuse でわざわざ自分の境遇を取り繕う必要がどこにあるだろう。それはそれとして、自律性を取り戻すための手も打ち続けてはいるのだけれども。

実際、今年は自覚的によく遊んだ年だった。今年のGW中に行った『ミュシャ展』の素晴らしさについては既に過去記事で触れた。*1 京都・奈良で気になるところも、一通り行った。また、長らく宿題だった『P4G』*2、『Breaking Bad』全5シーズン*3、『Undertale』*4、『Va-11 Hall A』*5を消化することができた(Breaking Bad については、いつかレビュー記事を書いてみたい。洋ドラという形式の中で練り上げられた、素晴らしい文学作品だった)。夏は『ドラゴンクエストXI3DS*6を最後までやり通した。スマートフォンでは、FGOFate/Grand Order)のセイレム編と、『どうぶつタワーバトル』*7が優れていた。
 映画は劇場で23本見た。文句なしで今年のベストといえるのは20年ぶりの正続編となった『T2 トレインスポッティング*8、B級ながら様式美として最も琴線に触れたのが『ドクター・ストレンジ*9、アクションとして優れていたのは『ジョン・ウィック チャプター2』*10と『HIGH & LOW THE MOVIE 3: THE FINAL MISSION』*11、アニメ作品で優れていたのは『モアナと伝説の海』*12と『KUBO』*13、世に出たことを
祝いたいのが『虐殺器官*14、『ダンケルク*15、『ジョジョの奇妙な冒険〔実写版〕』*16、今後のマルチメディア展開を期待しているのが『ゴジラ 怪獣惑星』*17。『スターウォーズ EP8』と『ガールズ&パンツァー最終章 第一話』は来年劇場で観る。

 小説はほとんど読んでいなかったが、先日のハヤカワ一斉セールで36000円ほどKindleに突っ込んだ。当分読む小説には困らない。その他イベントとしては、東西のスガフェス*18*19に参加できたのがよかった。

 生活面の変化としては、今年前半は強歩(=強負荷散歩)にハマった。しかし後期に再び忙しくなって運動強度を落としたのを機に、二畳でできる合気道ストレッチと、『プリズナートレーニング』*20の新人メニューに従事するようになった。強歩する男、二畳稽古する男、次いで囚せられた男。
 万年筆も、憧れのスーベレーンM400緑縞*21を買い、それにペリカンインク4001暗緑*22を詰めて使っている。取り回しのいいiPad mini4*23を導入したおかげで、NetflixKindle の消費その他、暮らしの隙間でコンテンツを消費する時間が確保できるようになった(iPad通常版では新旧ともに寝ながら見続けることは難しかった)。

 来年の話は来年に。

藤原聖子『教科書の中の宗教:この奇妙な実態』(2011,岩波新書)

[asin:4004313139:detail]

 この書籍は、2006年から2008年の間に行われた科研費基盤研究B「世界の公教育で宗教はどのように教えられているか:学校教科書の比較研究*1の調査研究の成果に基いて執筆されている。実際、この研究プロジェクト自体には大きな意義があったことと思われる。
 ただ、少なくとも「この岩波新書」一冊に限って言えば、科研費事業を通じて得られた観察が組織化されていないように見える。
 本書の構成がこのようになってしまった理由を推察するに、以下の点が、議論の収斂をみないまま個別に指摘されるにとどまっているためと思われる。

  • (1) 日本語圏の宗教教育の記述が、世俗的倫理を肯定するために粗雑に転用されていること。
  • (2) 日本の倫理教科書におけるキリスト教・仏教の記述が多面にわたり誤謬やミスリードに満ちており、宗教学的理解として半端な記述のまま普及してしまっていること。
  • (3) 日本の倫理科におけるワーディングが、さらにセンター試験等の受験的都合により整理困難に陥っていること。
  • (4) 海外では「現代の宗教者」どうしでの文化多元主義的なコミュニケーションが宗教教育の主軸となっているのに、日本ではその導入が遅れている(あるいは難しい)こと。
  • (5) 日本の教科書会社にそもそも予算がないため、上記のような問題を解決に向かわせるような経済的余裕がないこと

 ひとつひとつの論点は、なるほど確かに重要である。そして、著者の参加した科研費プロジェクトは、主に (4) の状況を学術的に高度な水準で調査したことによって得られた知見であり、他国の先駆的な例と日本の教育状況との差をうまく伝えている。
 しかしながら、これらの(1)-(5) の問題は、同時に扱ってうまくいくようなものではなさそうである。問題の種類が微妙に異なっているからだ。そして本書の記述は、残念ながら、「それらの問題が、あるよね……」ということを紹介したところで、力尽きているようにも見える。
 
 結論だけに注目すれば、著者による理想的な宗教教育は「伝統的宗教と世俗的倫理の両方を知り、では自分はどうするのかを改めて考え」(p.216)てもらう機会を設けるものだと、読み取れる。しかし、本書を読み通しても、それを実際に日本語圏の倫理科教育で実現するためのロードマップの呈示にはほとんど至っていない。そのため、終盤に至っては、先に引用した部分である教科書原稿用のテキストが「ボツになってしまった」(p.216)と愚痴ることで締めくくってしまっている。

 だが、そうした結末を、単に著者の力量不足に還元してよいわけでもなさそうだ。同書の著者が、教科書執筆にあたっての座組について、このように述べているところからは、現場に立ち入って悩み抜いた著者の苦心が読み取れる:

 今回の〔引用者注:倫理科の教科書〕改訂にかかわる中で、筆者がもっともストレスを感じたのは、アドバイザーである高校の先生方に、出版社が会わせてくれなかったことである。どの出版社も、教科書の原稿に対して、何名かの高校教員に意見・要望を出してほしいと協力を依頼するようだが、少なくとも私がかかわったケースでは、ディスカッションの場はなかった。出版社の編集担当を介して、間接的にやりとりをして原稿を検討するのである。出版社に直接確認したわけではないので推測になるが、おそらくそうするのは、執筆者側が大学教員である場合、直接ひき合わせると高校の教員は遠慮して意見を言わなくなると思っているから、あるいはそのような検討会を設けると余分な時間と労力がかかるからではないか。検定を受けるために教科書制作にはタイムリミットがあるので、効率を優先させたいという事情もわかるから、長年の慣例に反してまで、協力者の先生と議論させてほしいとは言いだせなかった。だが、「伝言ゲーム」では、互いの意見の意図が十分にわからない。とくに今回のように、宗教に対する根本的な見方の違いから発する問題などは、時間をかけて話し合わなければ通じるものではない。
(同書 pp.200-201)

だが、それだけの重大な壁が立ちふさがっていることまで判明していたのであれば、いっそ高校の先生方へのインタビューも含めて、宗教教育学的な課題として踏み込んでいったほうがよい、とも言えないか。つまり、教科書会社に組織体力面で期待できないのであれば、ここから高校の倫理科教諭と連携して、教育実践の更新へと取り掛かるような、そうしたロードマップを敷き直す宣言を行ってもよかったのではないか。そしてともすれば、そうした方向での研究計画の実施ということさえ、可能ではないか。ifの話ではあるけれども、そのような方向性も示唆される記述だった。

『教科書の中の宗教』目次
001 1章 教科書が推進する宗教教育――日本は本当に政教分離
021 2章 なぜ宗派教育的なのか
055 3章 教科書が内包する宗教差別
117 4章 なぜ偏見・差別が見逃されてきたのか
137 5章 海外の論争と試行錯誤
181 6章 宗教を語りなおすために
223 あとがき
主要文献