安倍現首相の『ゴッドファーザー4』発言はなぜ“マズい”と言えるのか?

はじめに

この記事は長文です(注釈部含め10000字ほどあります)*1
お暇な方だけ、どうぞお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

これから話すことの目次

  • このたび取り上げる事実・発言
  • (1) この発言が「高松宮殿下記念世界文化賞」の首相スピーチであること
  • (2) 今回の演劇/映像部門の受賞者が、映画監督フランシス・フォード・コッポラであること
  • (3) 安倍首相がこの第25回世界文化賞に出席し、コッポラの受賞に際してスピーチを行ったこと
  • (4) 安倍首相がスピーチの場において、コッポラの『ゴッドファーザー』を何度も見返していることを仄めかした一方で、もし自身が政治家の道を選ばなければ『ゴッドファーザー4』を撮っていたかもしれない、と発言したこと
  • (5) 映画的営為から決して切り離せない時代背景・時代ごとの人材といった(“偶然”や“出会い”を含む)諸要素の等閑視
  • おわりに

このたび取り上げる事実・発言

2013年10月16日の夜、優れた芸術の世界的な創造者たちを顕彰する「高松宮殿下記念世界文化賞」(主催・公益財団法人日本美術協会/総裁・常陸宮殿下)の第25回授賞式典が、常陸宮、同妃両殿下を迎え、東京・元赤坂の明治記念館で行われた。この席には、今回の世界文化賞の演劇/映像部門受賞者であるフランシス・フォード・コッポラ氏も出席していた。*2

 この世界文化賞の来歴や位置づけについては後ほど詳しく述べるとして、今回取り上げたいのは、この賞の授与式にいて安倍晋三・現首相がスピーチを行ったことである。やや長くなるが、引用したい:

若いころ、私は映画監督になりたいと考えたことがあります。それぐらいに、コッポラ監督の「ゴッドファーザー」は当時17歳の青年の心を捉えました。もし私が(政治家という)「ファミリー・ビジネス」に固執しなければ「ゴッドファーザー4」を撮っていたかもしれません。その代わり、アベノミクスはなかったかもしれませんが。この不滅の名作は40年以上を経た今、何度見直しても、色あせることはありません。
朝日新聞デジタル, 2013年10月16日, http://www.asahi.com/politics/update/1016/TKY201310160527.html

この発言の「何が」「どのようにして」“問題”だと言えるのか。*3
フランシス=フォード・コッポラ監督の作品や『ゴッドファーザー』シリーズについてはよく知らないという映画ファン*4の方にもできるだけ把握しやすくなるよう、ひとつずつ順を追って説明したい。大小挙げればきりがないため、おおまかに言って5つほどの要因で説明を試みた。もし、わかりづらい説明となっていた場合は、それはすべて筆者である私の責任である。

(1) この発言が「高松宮殿下記念世界文化賞」の首相スピーチであること

高松宮殿下記念世界文化賞」(略称:世界文化賞)とは、日本美術協会が1988年に創設した、全世界の芸術家を対象にした顕彰制度のこと。「高松宮殿下記念」の部分は、大正天皇の第三皇男子であり昭和天皇の弟にあたる高松宮(たかまつのみや)が、1929年から1987年まで同協会の運営に携わってきたことを記念してその名がつけられた。*5
 世界文化賞は「絵画」「彫刻」「建築」「音楽」「演劇/映像」の5部門それぞれを顕彰してきた。そして2013年秋、第25回目の表彰式を迎えた。今回の受賞者は以下の通り:

部門名 第25回世界文化賞受賞者
絵画部門 ミケランジェロ・ピストレット
彫刻部門 アントニー・ゴームリー
建築部門 デイヴィッド・チッパーフィールド
音楽部門 プラシド・ドミンゴ
演劇・映像部門 フランシス・フォード・コッポラ

(それ以前の受賞者も、国内外問わず、錚々たる一流の芸術家が選定されている。受賞者一覧*6を参照されたし。たとえば、歴代受賞者の中には、黒澤明ジャン=リュック・ゴダールなど、映画マニアでなくとも名前を聴いたことがある映画監督が名を連ねていることに注目いただきたい。)

 さて、次は太字で強調した、件の人物についてである。

(2) 今回の演劇/映像部門の受賞者が、映画監督フランシス・フォード・コッポラであること

再び、世界文化賞の公式ページから引用する*7

 監督、プロデューサー、脚本家として、数々の名作を生み出してきた映画界の巨匠。大学在学中から「低予算映画の王者」ロジャー・コーマンのもとで映画の仕事に携わり、低予算映画を演出。戦争映画『パットン大戦車軍団』(1970)でアカデミー脚本賞を受賞した後、1972年の『ゴッドファーザー』(アカデミ−賞3部門)の世界的ヒット(※引用者強調)でメジャー監督の仲間入りを果たした。1974年の『ゴッドファーザー Part II』(アカデミ−賞6部門)と『カンバセーション...盗聴... 』(カンヌ映画祭パルム・ドール)に続いて、1979年の『地獄の黙示録』(パルム・ドール)で不動の地位を確立。制作会社アメリカン・ゾエトロープを設立(1969)、ジョージ・ルーカスらと共にアメリカ映画の黄金時代を築く。『コッポラの胡蝶の夢』など最近3作 (2007-2011) は「オリジナル脚本による低予算映画」という若い時代の原点に復帰し、現在、3世代のイタリア系アメリカ人を描いた「野心的大作」を執筆中。黒澤明監督を尊敬し、最近作には小津安二郎監督の「固定したカメラワーク」を適用するなど、日本映画からも大きな影響を受けている。

 上掲文にさらに補足を重ねるとコッポラ監督の経歴において、商業的にも批評的にも成功したのは『ゴッドファーザー(Part IおよびPartII)』である。一方、批評的には傑出した地位を築いたものの、最終的に(駄作というのではなく、大きな赤字を出してしまったという点において)興行的に振るわなかったのが『地獄の黙示録』であるというのが、コッポラ作品に関して一般的に共有された評価である(『地獄の黙示録』が商業的に失敗だったことは、後に『ゴッドファーザー Part III』の製作を引き受ける経緯についてコッポラ自身が語った中で言及されている)。

[asin:B004FPH7RU:detail]
[asin:B009A53CO2:detail]

(3) 安倍首相がこの第25回世界文化賞に出席し、コッポラの受賞に際してスピーチを行ったこと

 ここまでの上記に引用した発言は、

  • フランシス・フォード・コッポラ監督その人を目の前にして
  • 1988年より続く日本発の文化顕彰の場において
  • 同賞を支援するところの日本国の首相が
  • 招待したコッポラの経歴を高く評価するという前提で発せられたものである

 という諸前提がある、ということだ。
 ここまでが、公的な場を設定せしめている諸々であるのだが……この後の理由が、コッポラ映画、特に『ゴッドファーザー』シリーズ三部作を観ていない人には、わかりづらいものとなるかもしれない。

 まずは本記事冒頭で引用した、元の発言に戻ってみよう。

(4) 安倍首相がスピーチの場において、コッポラの『ゴッドファーザー』を何度も見返していることを仄めかした一方で、もし自身が政治家の道を選ばなければ『ゴッドファーザー4』を撮っていたかもしれない、と発言したこと

若いころ、私は映画監督になりたいと考えたことがあります。それぐらいに、コッポラ監督の「ゴッドファーザー」は当時17歳の青年の心を捉えました。もし私が(政治家という)「ファミリー・ビジネス」に固執しなければ「ゴッドファーザー4」を撮っていたかもしれません。その代わり、アベノミクスはなかったかもしれませんが。この不滅の名作は40年以上を経た今、何度見直しても、色あせることはありません。
(同上)

 この発言には、『ゴッドファーザー』シリーズの位置づけに関して、少なくとも二つの矛盾(矛盾と言って悪ければ“誤解”)がある。しかし、まず第四の失言事由としてここで取り上げたいのは『ゴッドファーザー“4”』という文字列の摩訶不思議さについてである。

(4a) ゴッドファーザーは三部作で完膚なきまでに完結している

ゴッドファーザー』シリーズは別名を「コルレオーネ・サーガ」とも言い、Part I,II,IIIの三部作で構成される。これら3つのコッポラ監督作品は、ニューヨークを中心に活動した架空のイタリアン・マフィアの一族「コルレオーネ家」とその周辺を一貫して扱い続けた。裏社会の“陰謀”と、一族の“家族愛”の双方が、映像の中で常に渾然一体となって進行する。
 元々は続編の見込みなどなく*8、無印の『ゴッドファーザー』がヒットしたことによって『Part II』が作られるも、第三部を制作する予定は長らくなかった。Part I,II,IIIの劇場公開日をそれぞれ並べると、その方針が容易に見て取れる:

作品 劇場公開年
ゴッドファーザー』(Part I) 1972年
ゴッドファーザー Part II』 1974年
ゴッドファーザー Part III』
(仮題『マイケル・コルレオーネの死』)
1990年

 ご覧のとおり、Part II からPart IIIまでの間には、実に16年の空白期間がある*9
 さて、コッポラ監督自身が『ゴッドファーザー Part III』について解説したところによれば、もともとこの映画は『ゴッドファーザー Part III』というタイトルではなく、『マイケル・コルレオーネの死(The Death of Michael Corleone)』という題で公開したかったという趣旨の発言がある。映画会社との力関係に破れ、渋々と続編製作に取り組んだというコッポラ監督の提案は、しかしゴッドファーザーの続編だとタイトルでわかった方がいいだろうという配給側の判断で無しとなった。*10 だがそのようなエピソードがあり、また『Part III』の結末をすでにご覧になった方ならお分かりの通り、コッポラ監督に以下の気持ちがあったことは無理なく推量できるだろう。

  • コッポラ監督には、Part II公開終了から長らくの間、商業的に強い要請がない限りもともと続編を作る気などなかったこと。
  • 『Part III』を製作する中でも、自ら担ってきた「コルレオーネ家の物語」に完膚なきまでに決着を付けたこと(少なくとも、マイケルを中心とする物語においては、その明確な意志が存在すること)。

 さらには、『Part III』を封切りした9年後の1999年、『ゴッドファーザー』の原作小説家であり、また『Part I』と『Part II』の脚本にも関わっているマリオ・プーゾ氏が逝去している。この逝去の件についてコッポラは「彼が亡くなってしまったことで、(たとえばビトー・コルレオーネ存命期のソニー・コルレオーネの活躍のような)別のコルレオーネ家の映画を撮る機会はなくなってしまったこと」を明言している*11

ゴッドファーザー』シリーズの製作に関するこうした一連の経緯は、00年代に入ってから『ゴッドファーザー』シリーズに魅了された私のような一ファンでさえ、少し調べれば容易に入手できる情報である。しかも、外部情報をそのように仕入れずとも――好事家によってPart IIまでで切るか、Part IIIまで含めるかで意見が割れるところではあるものの*12――「コルレオーネ・サーガには既に決着が着いている」という見方それ自体は、少なくとも本作シリーズを追ってきたファンの間では当然、共有され得るものと思われる。

 つまり、

  • (x.)コッポラ監督の映画活動史や発言から見ても、
  • (y.)『ゴッドファーザー』シリーズの作劇それ自体の作為から見ても、
  • (z.) 三部作それ自体を一受容者の観点から点検したとしても、

ゴッドファーザー4』などという奇天烈な文字列など、まず出てこようはずがないのである。*13

(4b) 安倍現首相が仮に別の世界線で映画監督を志し、ゴッドファーザー(のような映画)を撮っていたかもしれないとして……

 先ほど私は、『ゴッドファーザー』シリーズの位置づけに関して、少なくとも二つの矛盾(矛盾と言って悪ければ“誤解”)がある、と述べた。もう一つは、コッポラ氏が『ゴッドファーザー』シリーズを通じて達成した映画的業績に対する、(安倍現首相の発言から読み取れる)評価尺度の危うさについて、指摘したい。

 まず安倍現首相が実行している「アベノミクス」は、明確に存在するコッポラの業績達成と比較できるほど盤石ななものでは現状ありえないという、単純明白な事実だろう。少なくとも、国がその世界レベルで文化的偉業を毎年度顕彰する場において、自らのたかだか一年にも満たない“アベノミクス”なる政策の評価を――これからの数十年に渡って評価の眼に晒されなければなんともいえないようなシロモノを――仮にもコッポラ氏を国賓として招いたその席で、「同じ年月を与えられれば、私だってやり遂げていたかもしれない、と取れるような宣言をわざわざ本人の目の前で行ってしまうことは、あまりに、あまりに非常識だとは言えはしないだろうか。
 安倍現首相の発言は、言うなればフランシス・フォード・コッポラ氏のみならず、演劇/映画部門において25回に渡って受賞してきた各受賞者たちの複雑多岐に渡る技巧および知的偉業を、「同じ時間をくれれば俺でも出来たかも〜?」と取られかねない、その程度のモノだったかもしれないと言っているようなものなのである。大抵の芸術家は、自分の実力を顧みて、「たとえ二度三度と繰り返し生きるチャンスを与えられたところで、世界文化賞の受賞者に選ばれた錚々たる面子の末席にすら加われるかどうか怪しい」と考えるところではないか――ましてや、芸術家人生を一度も全うしたことのない素人が易易と口にできることではない。*14。端的に、世界文化賞を貰えるレベルの人々のパフォーマンスは、「一生を捧げて時間をかけりゃだれにだって出来る」ような水準をとっくのとうに超えてしまっていることは一目瞭然なのだ。
 1988年から営々と積み上げられてきた、世界文化賞が与えられた人々の努力は、あるいは与える側である高松宮殿下および日本美術協会の面々の努力は、一体どうなってしまうのか。
 こうした点から考えても、「自身が続編を作っていたかもしれない」という安倍現首相の発言は、賞賛の言葉としては機能しない、「簡単に模倣できる程度の資質」という主張とすら取られかねない発言なのである。

(5) 映画的営為から決して切り離せない時代背景・時代ごとの人材といった(“偶然”や“出会い”を含む)諸要素の等閑視

 このようなわけで、あの場で、しかもコッポラ当人が居る場において、あの言葉が「褒め言葉」として機能するなどと考えられることは、『ゴッドファーザー』シリーズの内実を少しでも真面目に記憶していれば、まずありえない判断なのだ。

 しかし、もう一つだけ、ダメ押しで強調しておきたいことがある。安倍現首相およびそのスピーチライティング・チームたちの、映画的営為に対する根本的なイメージ能力に関わる問題だ。

 百歩譲って、安倍晋三その人が“映画人”として、極めて優秀な素養を持っていたとしよう。その本来持てる素養を全てなげうって、42年近くの歳月を、映画的資質ではなく政治に全力で投擲したのだとしよう*15。その結果としての、2010年代初頭の「アベノミクス」だとしてみよう。「いや、アベノミクスだって大したもんだよ、アベノミクスを実現する程度の力があれば、『ゴッドファーザー』三部作くらい安倍現首相にも撮れる」と仮定するなら、確かにそうなのかもしれない。仮に、個人的資質として、フランシス・フォード・コッポラ安倍晋三は同等だった と し よ う 。
 しかし、いくら時間を巻き戻して、別の世界線の天才映画監督・安倍晋三を架構したとしても、そこにはまだまだ足りないものが存在する。

――ヴィトー・コルレオーネを演じ、その後のイタリアン・マフィアのiconとなる傑出したマフィア像を構築した名優、マーロン・ブランドー。
――三部作全編を通じてマイケル・コルレオーネの数奇な生涯を見事に演じきった、アル・パチーノ
――マーロンとアルの二人のみならず、当時の多くのハリウッド俳優たちが彼の薫陶を受け、またPart IIでは彼自らも中米マフィアの影の頭領ハイマン・ロス役として出演を果たした、いわゆる〈メソード〉の伝道師、リー・ストラスバーグ
――シリーズ最高傑作と謳われる『Part II』の若年ヴィトー役を担い、過去編の彼にこれ以上ないほどの具体的な姿形を与えたロバート・デ・ニーロ
――難しい役どころながら、マイケルの妻ケイとして(途中からは元妻として)の生を、第一部から最後まで共に演じた、ダイアン・キートン
――第三部には惜しくも登場しなかったものの、第二部までの要所で重要なファミリーの“参謀”を任された、ロバート・デュバル
――『ゴッドファーザー』以後、その陰影の付け方に数えきれないフォロワーを生み出した撮影技師、ゴードン・ウィリス*16
――「愛のテーマ」を含め、本シリーズに多数の楽曲提供を行ったニーノ・ロータ
――何より、シリーズの基部となるイタリアン・マフィアの物語に“家族愛”という新たな中核を与えた原作者、マリオ・プーゾ
――そして、『ゴッドファーザー』第一作がまさに作られていた1970年代前半、すでにハリウッドに根付き、すでに燻り始めてもいた、〈アメリカン・ニューシネマ〉という特殊な時代背景。*17

 他にも数えきれないほど、シリーズ各作品において重大な役割を果たした映画人は存在する。しかし、そんなことはこの際置いておこう。別の世界線に居る青年・安倍晋三に、このような映画的人材を結集するだけのキャリア的な素養はありえただろうか? あるいは、40年走り続けて、上記人員ほんの一部でもいい、同等の人物を揃え、『ゴッドファーザー』的なるもののエッセンスを凝縮し、映画に情熱を注ぐ全ての人達が「明日また、一歩でも前に進もう」と奮い立つような作品を呈示できるというのか?

 別のありえたかもしれない世界において、本当にそんなことができるかどうかの答えを、直接安倍現首相の口から引き出したいわけではない。だが少なくとも、映画製作というのは――たとえば『ゴッドファーザー』シリーズに関わった人物や当時の社会背景を一つ一つ丹念に洗い出すだけでも――そこにたまたま舞い降りた天才が、たった独りでポンと偉業を生み出して顕彰されるような、そんな容易いものではまったくないという至極当たり前のことを、ここで今一度確認しておきたいのである。

おわりに

 フランシス・フォード・コッポラ氏は、私だけでなく、アメリカの映画に一程度以上親しむ人の誰もが、掛け値なしに尊敬する人物である。

 だが、そんなコッポラ氏にも、その栄誉に至るまでに数限りない多くの出会いがあり、学びがあり、気付きがあり、その結果として、コッポラ監督という偉大な結節点〔ネクサス〕において生み出された『ゴッドファーザー』シリーズが存在するはずなのだ。*18

 そしてそんなことは、単に名画座で、あるいはAmazonで取り寄せたBlu-rayディスクを通じて何度も楽しませてもらっている程度の、(年季も浅く、相当ヌルめの)一介のコッポラ映画ファンである私でさえ、理解可能なことなのである。

 安倍現首相や、その原稿を読み上げるまでの準備を行うスピーチライターの方(※もし存在するなら)に、そうした映画的営為の初歩中の初歩に想像をめぐらせてもらうことは、そんなにも難しいことなのだろうか?

 もし、その範囲での努力が難しいというのであったとしても、こんなことが何度も続くのであれば、せっかく25回も続けられてきた日本発の文化賞の価値をむやみに自国から貶めることも繋がりかねない。だがそれ以上に、私個人にとっては、国益どうこう以上に大事なことがある。こうした式典が行われるたび、厚顔無恥かつ無学無識な政府首脳ら(とそのスピーチ原稿担当ら)が、各文化のトップランナーに対して、彼/彼女らの偉業の文脈をまともに洗いだすこともなく、不勉強なママに一流の芸術家の顔に泥をぶちまけてハイオシマイ、というような大惨事が起きてしまう事態*19を、もうこれ以上繰り返してほしくない、ということだ。

 映画的営為を称賛する言葉遣いの背景となる語彙の選択から――内閣官房だけでなく、文化産業振興の利害に直接関わる経済産業省文部科学省文化庁など諸々の政府機関と連携を取ることなども含めて――ぜひ、抜本的な見直しをして頂きたいと強く願う。


(本文は以上)


本記事に関する反応・質問に関するFAQ

(※131019Sat夜の更新を以って更新を打ち切りました)

□「長い。」

 いやー、すんませんでした。でも読んでくださってありがとうございます。
 この長さは、素朴なコッポラファンとしての自分がある種の免疫反応として応答した結果でした。コッポラ映画のファンには自己セラピーが必要な種類の、それくらいショックな出来事だったのです。

□「これ何時間で書いたの?」

その日の11:00過ぎに草稿を書き始め、事実関係等を確認しながら書き進めたら、13:30ごろには初稿が上がっていました。それから色々直しをしたので、合計3時間くらいです。

□「こんなのわざわざ書かなくてもいいじゃん。」

セラピーとして必要な種類の怒りが渦巻いていたので、少なくとも私には必要でした。
文章を書くというのは一種の瞑想行為でもあります。書き終えた今でこそだいぶ冷静に「私はなぜ批判したいのか」を述べられますが、これを仕上げるまでの10/17日中は、始終説明のしがたいガッカリ感に襲われていました。それがどうにかこうにか治ったので、書いてよかったと思います。

□「この文章は『ゴッドファーザー』に関する作品評としてイマイチ/低劣ではないか?」「作品鑑賞の態度として、外部の事象に依りすぎた説明ではないか?」など

 まず、この文に『ゴッドファーザー』に関する内在的な“批評”の文章を求めてがっかりされた方には、すまなく思います。
 その上で率直な感想を申し上げますと、本文そうした“批評”を目的としたものと見做されても、戸惑うばかりです。私は「フランシス・フォード・コッポラ監督が賞を受賞した」という、映画作品の外で起きている事象から出発して、文化的な言説の空間で、いったい何が起きていたと推測しうるかについて、ひたすら論を進めてきました。そのため、しばしば作品に対して(外部の社会的状況なども考慮しつつも、基本的には)強く内在的な立場を堅持して望む良質な「批評」の文章群とは、初めから袂を分かっています
 そもそも「人物に与える賞」という、強く作品外の名誉の力学が働く事象への言及から出発して、内在的アプローチによる映画評を構築するのは極めて難しい作業ではないでしょうか。もしそういう出発点から始めるコッポラ論、『ゴッドファーザー』論が誰かから求められたのであれば、確かにそのように書くのが筋でしょうけれども、残念ながら私は『ゴッドファーザー』の魅力を、その出発点から論じる意義を見出せませんし、そのコンセプトで巧く論じられるとも思いません。そうした期待は、拙ブログではなく、より専門的な映画評論家による『ゴッドファーザー』論で十分代替できるのではないでしょうか。
 いずれにせよ、私の目的は、文化賞という強烈な名誉の力学が働く場において何が不名誉な振る舞い(behavior)であり、その尺度から見てどんな価値判断(sanction)が下されうるかを記述することに注力しました。それは批評的な達成を目指してのものではなく、どちらかといえば社会的状況における interactive な価値判断の呈示に関する極めてショッキングな例を、手許にできるだけ克明に書き留めておきたかったという意図によるものです。*20その上で、その作業自体の目標はすでにある程度まで達成し得たと考えています。

□「本件は単なる軽口でしょう、そこまでこだわらなくても……」

 そう思われる方ために、「軽口では済まない」と私が考える理由五つを挙げております(再度、目次をご覧ください)。各々方にその五点についてご納得頂けるかどうかはさておき、事由を挙げるという文責は果たしたつもりです。

□「なんで安倍“現”首相って言うの? 安倍首相でいいじゃん」

 いやほんと、その通りなんですけどね。読みづらかったと思います、すみません。
 ただですね、ここ5〜6年日本で暮らしている人間の実感としては、「◯◯首相」というのはひどく temporal で落ち着きどころのない存在というか、そういう気分がどうにも抜けないのです(こういうおバカ写真もありますしね)。なので少なくとも記事本体では「安倍現首相」と一貫させました。ただ、さすがにもう面倒臭くなってきたのでこのFAQでは「安倍首相」に戻します。

□「“みんな”が映画についてそこまで知る必要ないじゃん……」

そりゃーそっすよ。
 だからこそ私はこんな長文を書いてまで丁寧に言わんとしているわけです:世界文化賞の席で」「日本発の賞を支援する立場である日本国首相が」「スピーチライターを雇っていながら」「あらゆる水準で、(映画に限らず、同席する受賞者の関わる)各種芸術に関して無教養な発言を」「受賞者の業績・経緯も考えずに厚顔無恥でつぶやく」というコンボが発生していなければ、別に安倍首相というキャラに「映画の教養があること」を期待しませんって。
 この記事を「要は安倍首相(and/orスピーチライティング・チーム)が無教養ってことを言いたいだけでしょ?」と要約される方がいます。そういう一面もあるかもしれません。でも、そうじゃありません。私は、「大事な儀式の最中にVIPがでかいオナラをするなよ」と同じくらいの水準で、「一国の首相が文化賞スピーチで、受賞者本人の前で無教養を晒すなよ」ということをお願いしているにすぎません。
 首相という役割を離れた安倍晋三という個体が実際に弩級の映画オタクだろうがドシロウトだろうが、そんなこと私にとっては一ミリの興味もないのです。あくまで「儀式において役割を遂行しろ」ということを一貫して述べているわけです。そして、それが首相個人の資質から発せられるとも期待しておりません。

□「個人的には、安倍首相の発言では“ファミリー・ビジネス”という発言のほうが気持ち悪いんだけど」

 確かにその通りです(私も同様に、その件についても不気味さを感じました)。ただ本記事では、「安倍発言がヤバい理由」としては6番目以降にカウントし、省略しました。コッポラとの関連で捉える必要は必ずしもない種類の発言だからです。本記事は、映画ファンからみた安倍首相のダメダメさを指摘することを第一義の目的として執筆されたものでした。

□「事実関係が間違ってたらお前どうするのさ?」

 その際は、記事を訂正し追加のコメントを記載する準備があります。ただし、現時点で推理した限りでは、現状の意見に変更はありません。

□「で、結局スピーチライターはいるの? いないの?」

 本記事をupした後、内閣審議官の谷口智彦という人物が、安倍首相のスピーチに関わっているという情報が出てきました。日本経済新聞社のライターで、現在は政府首脳付の報道官としてスピーチライティングに関わっている人物だとのこと:

国際舞台で堂々とスピーチを披露する首相。その立役者として名前が挙がるのが、内閣審議官の谷口智彦氏だ。「AERA」9月23日号では、谷口氏の貢献ぶりを紹介している。
元は経済誌日経ビジネス」記者で、英語に堪能。〔中略〕6月2日付の日本経済新聞も、谷口氏を詳しく取り上げた。第1次安倍内閣では外務副報道官を務め、当時の麻生太郎外相の訪米時の演説原稿を英語で書いていたという。こうした経験を踏まえて首相がスピーチライターに指名した。外交演説では初稿から起草するケースも少なくなく、5月のサウジアラビアでの演説は「共生・共栄・協働」というキーワードを提案、日本が中東から石油を輸入する「一方通行の関係は過去のもの」と位置づけ、「21世紀は共に生き、共に栄える世紀だ」との内容にまとめた。
 首相は演説のシナリオに、現地にまつわるエピソードを取り入れたがるという。今回、NYSEで映画「ウォール・ストリート」のセリフを散りばめたのも、首相の意向を谷口氏がくみ取ったのかもしれない。
J-CASTニュース「安倍首相の「名言」生み出すスピーチライター:元「日経ビジネス」記者が大活躍している」[2013.09.26 http://www.j-cast.com/2013/09/26184760.html?p=2:title=2013.09.26 http://www.j-cast.com/2013/09/26184760.html?p=2] )

 ただ、このスピーチライターの活躍をむしろ失策と捉えるようなブログ記事も幾つか散見されます。(2013年09月のゴードン・ゲッコー発言を批判する記事のURL。

 なので、「スピーチライターは存在する」という理解でほぼ間違いないようです。ただし、今回の世界文化賞の発言が安倍首相本人が独力で編み出したものである可能性もありますので、即座にスピーチライター陣に帰責することもしづらい現状です。

□「ゴッドファーザーPart IV、企画あったよ?」

 わかりづらくてすみません、その辺の経緯については本記事のこの注釈でさらっと言及しております。ポイントは2点あります:

  • マイケルについての物語ではなく、前日譚としての構想はあったこと。より具体的に言うなら、マイケルの兄であるソニーと、Part IIIでソニーの隠し子として出てきたビンセントの物語がザッピング形式で同時に語られる、という構想はあった。これをコッポラ自身による続編構想と呼ぶことは可能である。
  • しかし、原作者マリオ・プーゾ(脚本の構成にもしばしば関わっていた)の逝去により、コッポラはその構想を断念していること。

 その二点を踏まえた上で言うと、マリオ・プーゾが死んで断念したコッポラの門前で『ゴッドファーザー4』などと言うのは、コッポラ映画ファン的にはマジありえん、なことなのです。*21「いや、マリオ・プーゾが生きてるかどうかなど安倍首相たぶん知らんし!?」とは言えないのが、ファンの欲目というものなのは重々承知の上で、やはり「マジありえん」なのです。それくらいスピーチライターにはマジで調べておいて欲しいんですよ。
 私のこうした願いが無理筋なお願いなのか、それとも賞の価値を高めるべきしかるべきコストの支払いなのかは、広く議論して欲しい所ですね。

□「で、世界文化賞って結局なんなのよ?」

 いやー面白いですよね世界文化賞スティーブ・ライヒレム・コールハースオーネット・コールマンも受賞していたのか、いい選定だなあと、受賞者リストを見て改めて思っていました。すでにある程度各界で評価が固まった人への賞という位置づけになるとは思いますが、各部門に同時に賞を授与するというコンセプトは非常に面白いと思います。

□「そもそも安倍の(知性/教養/その他諸々の特性)は……」

 自分は少なくとも本件についての安倍首相の発言については扱いますが、その他のソースでもって安倍首相の資質や性格について言及する意図は特にございません。他の方々にお任せします。
 その上で、国の文化事業として賞を授与する場でくらい、文化人としての体裁を保ってもらう工夫くらいは、内閣官房および各省庁で頑張って“キャラづけ”して頂きたいというのが、私個人の希望です。

□あと誰もツッコんでないけど

「安倍首相さー、それを言うなら『ゴッドファーザー4』じゃなくて『ゴッドファーザー Part IV』でしょ?」
と誰か最初に言って欲しかった。

*1:その後付け加えたFAQを足したら、15000字を超えていました。いかにもまるわかりの激おこプンプン丸ですね!

*2:ソース:MSN産経ニュース天皇、皇后両陛下もご祝意 25周年記念レセプション」2013.10.16 23:10, http://sankei.jp.msn.com/life/news/131016/art13101623110006-n1.htm

*3:なお「誰にとって」という点に関しては、私個人にとってのみならず、少なからぬ映画文化に関心をもつ日本語圏の人々にとって、という程度の射程があるだろうと見込んで、本記事を執筆した。

*4:「ファン」の程度については、軽重硬軟なんでもござれ。

*5:高松宮記念世界文化賞」公式サイト http://www.praemiumimperiale.org:title=http://www.praemiumimperiale.org

*6:http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates

*7:http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/item/299-zoetrope

*8:2010年代の今では違和感のある事実であるが、『ゴッドファーザー Part II』がヒットするまで、ハリウッド映画においても『(作品名)Part 2』といった続編が作られることは極めて稀な事態であった。

*9:もちろん、この間にもコッポラ監督は『地獄の黙示録』『ランブル・フィッシュ』『コットン・クラブ』など、他の作品の製作に取り組んでいた。

*10:この仮題を引き受けつつ、『Part III』の映画的な再評価を試みている動画も存在する:"Godfather Part III, The Death of Michael Corleone: Video Essay" The Seventh Art: Issue #5, Section 2 http://www.youtube.com/watch?v=JKda5wqspOA

*11:この発言元も同様に『ゴッドファーザー Part III』の監督解説に拠る。できれば原文から抜き出したいところだが、急ぎでupすることを優先する。補足は以後の課題としたい。記憶が確かならば、Part III終盤において、続編――というより過去編――の構想と、プーゾの死による断念が語られているはずである。

*12:なお筆者は、『Part III』すなわち『マイケル・コルレオーネの死』を、Part I,IIと共に高く評価する見方に立っている。異論は認める。

*13:もしかすると安倍現首相は、『ゴッドファーザー』シリーズを、ある年代以降のハリウッド映画……『スターウォーズ』とか『リーサルウェポン』とか『エイリアン』とか『ターミネーター』だとか……(いや、それらはもちろんどれも面白いのだけれども、そういうことを言いたいわけではなくて)……ともかくそういうもののone of themとしてしか捉えていないのではなかろうか。本当に、本当に『Part III』まで観た上であのスピーチ原稿を読み上げたのだろうか? あるいはこうも考えてみる……仮に安倍現首相が、『ゴッドファーザー』をPart Iしか観ていない(あるいは、Part Iさえほとんど観ていないか、かつて観た覚えがあるとしても2013年時点でろくに覚えていない)として、安倍現首相のスピーチ・ライティングを担当していた部下は、一体何を考えてあのような原稿を準備したのか? このように邪推しようと思えばいくらでもできてしまうが、あまり生産的な作業ではない。

*14:もちろん、こうした発言によって、芸術家一般の営為をある種の神秘主義めいた存在に押しあげたいわけでは毛頭ない。単に、この世に技芸(arts)と分類される物事について数年程度でも触れたり、技芸を通じて生み出された作品群に少しでも系統的に親しんだことのある人間なら誰でも、その道に一生を捧げた人間のパフォーマンスと、それでも一生涯賭けても超えられないような壁が、大多数の技芸家の前に立ちはだかっていることくらい、わかるだろうと述べたいだけである。

*15:安倍晋三氏は1954年9月21日生まれであり、『ゴッドファーザー』(Part I)が公開された1972年夏には、確かに17歳であった。

*16:私見であることを承知で申し上げるなら、最も広範囲に深甚な影響を与えた『ゴッドファーザー』シリーズ発の映画史的達成は、このウィリス風の演出技法ではないだろうか。

*17:アメリカン・ニューシネマのジャンル的な話は、私はすでに両手を上げて降参する準備がありますので、詳しいシネフィルの方々にお任せします。少なくとも『ゴッドファーザー』それ自体はアメリカン・ニューシネマの核に必ず入るというわけではないようですが、1970年代後半になると『スターウォーズ』など、SF超大作の時代がやってきてまたシーンが変わりますので、広く反体制的な、どこか陰影のある犯罪映画・社会派(?)映画が多く製作されていた、くらいのユルい意味合いで引き合いに出しています。ちなみに、アメリカン・ニューシネマどまんなかで素晴らしい作品では、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』を推します。『ゴッドファーザー』シリーズと比較してもかなり面白い、ざらついた街の風景の撮り方が魅力です。

*18:ちなみに筆者は、『コッポラの胡蝶の夢』も大好きだ。一般的にはコッポラ映画としては評判が悪いらしいけれども……。

*19:もはや言うまでもなく伝わっているとは思われるが、フランシス・フォード・コッポラ氏に対して安倍晋三という人物とその周辺が行った所業は、以上のように要約できると考えている。

*20:多少の学術な興味が混じっているくせ、記述・報告においては個人的なバイアスが入っていることは隠しもしていませんし、その点については翌日冷静になって、多少反省しているところではあります。

*21:それから、Part IIIを観た方にはある程度頷いてもらえると思うんですが、ビンセントは「ドン」としての風格を、コルレオーネ家の一時代を築いたマイケルほど身につけていけるか、かなり微妙じゃないですか? もちろん、アンディ・ガルシアの演技力が不安だというのではないですよ? そうではなく、もうそういうものとしてPart IIIのビンセントおよびコルレオーネ・ファミリーの周辺は演出されてしまっていると思うんです。マイケルの死と共にゆっくり滅び行く者として。あとは、Part IIIの面子が、かろうじて「コルレオーネ・サーガ」の役者を揃えられるギリギリ最後の機会であったとも思います。役を全て一新して、Part IV構想を実行しても、コッポラが思い描くような理想的な『Part IV』はとりがたいでしょう。特に粗暴な長男ソニーの再構成が非常に難しい。Part IIIでさえ、ロバート・デュバルが結局降りてしまったために脚本変更を余儀なくされてしまったわけですし、役者が揃わないことには『ゴッドファーザー』シリーズの看板を背負い難い。ミーハーなファンとしては、そういう風に考えてます。/それにしても、この辺を真面目にファン同士で語りだすと、ドストエフスキー愛好家同士における『カラマーゾフの兄弟2』論争みたいになって泥沼ですね。いやはや。