FAQ about Tricken's discourse

このエントリについて

 本エントリは、@tricken に寄せられた疑問・質問のうち、再掲しておいた方が訪問者(Twitter含む)の参考になりそうな記述を置いておくものです。初出情報等は最初に書きます。
 なお、これは当時の暫定的見解として書いたものであり、このエントリの読者が本記事にアクセスした時点で本人が“同じ立場”に立っていない(少なくとも、若干の修正等が加わっている)可能性は普通にありえます。ご了承ください。
 なお、様々な個人的経緯により、社会学系の話をしていた時が多かったため、回答した質問も社会学系のものが多いです。

▼「連絡先は?」(2016.02.27 追加)

email: godandgolem.inc *at* gmail.com です。(*at* を @ に変えてください)。Twitter DMでもメールと同じようなやりとりをする場合はありますが、replyでの相談は、正式な窓口としては対応できない場合があります。あらかじめご了承ください。

▼「何者ですか?」(2015.07.04)

Q. いろいろ喋ってるあなたは何者なんですか? 電子妖精ですか? 本当に人間なんですか?

A. えー、信じがたいことに、この質問はべつに創り話ではく、本当に自然体で暮らしていても十の指では足りないほど似た質問が多いので、まじめに答えます:

 一時期まで大学院生のDC(専攻:理論社会学・知識社会学。さらなる内訳についてはその他のFAQでお察し下さい)をやっていた人間です。学部の頃は宗教社会学という隣接ジャンルのゼミに属していたため、人類学系・宗教学系の話題も(文献学の人にはさすがに敵いませんが)玄関口あたりまでは訓練させられました。

 色々巡り合わせがありプロにはなれませんでしたが、社会学関係の文献は今でも読んでいます。また、2004年ごろから別ハンドルや本名等で game studies にも深くコミットしてきましたが、荒れそうな話題は基本的に寄稿・論文・口頭発表等の形以外、つまり、たとえばTwitterではやらないことにしています(話したとしても、issueを共有し合える友人とのreplyにおいてしか言及していません)。ですから何か質問されても、このレギュレーションの下において一切関知しないことがあります。この点、あらかじめご承知おきください。

 趣味関連のキーワード・タグとしては、[ファンク][ジャズ/フュージョン][サイバーパンク][合気道][文具][会話型RPG]の比重がかなり高いほうだと自認しています。趣味に関する尊敬する人一覧はこちら*1 、 思想関連で影響を受けている人物一覧はこちら*2 です。

 ちなみに高校公民科教職免許第一種を一応取っており、小学生から高校生までの文系科目(英語・現代文・古文・漢文・政治経済・倫理・世界史)は、難関大対策や社会人向け教材指導含めてひと通り教えられます(が、2015年現在、そっち方面の仕事はしておりません。)

 その他、某流派の合氣道弐段(2006年)、全日本剣道連盟の剣道弐段(2000年)を取得しています。ただし最近は稽古をしておらず、段位も実体を伴わない紙切れと化しつつあります。

▼「知財の思想について」(2015.07.04)

Q. Twitter上で色んな分野について言及したり、気軽に人の質問に回答していたりしますが、言及する/しない、質問に答える/答えないなどに何かルールや線引きといったものはあるのでしょうか?

A. 「著作権に触れない範囲において、色々なジャンルで知識を整備すること、それ自体の価値」を祝福する行為に、喜びを感じます。Twitterは、思いついたことをそのまま言え、断片的にであれそれを必要としている人に、さざなみのように届くかもしれない可能性を担保しているため、情報の授受に関して非常に自由主義かつ個人主義的で居られます。*3

 ただ、NGもあります:

(a) 「お前はどうせ誤っていると思うが、私が自己正当化の素材に使いたいから暫く語ってくれたまえ」といった、自己の social identity に汲々としている態度やふるまい
(b)「知識はあらゆる意味において無料だと思っており、あなたの時間も無償だと考えていいはずだから、ぜひとも私に隷属して教授してくれたまえ」といった、人の時間の有限性を考慮しないふるまい

 この2点に該当するとこちらで判断してしまった方については、それが喩え一時的な誤解だったとしても、精神的または時間的な防衛のため、敬遠します。あらゆる知識が原理的にどういった経路からもアクセス可能である中で、tricken という固有のアクセス経路をわざわざ用いる必然性というのは特にないと思いますが、それを前提とした上で、やはり明言しておかなければならないことがあります。

 私は人一倍、友人や家族やパートナーといった特別な人間関係を結んでいる以外の、他者の social identity が傷ついたり修繕されたりすることに関して *一切* 興味がありません。そうした“霊的救済”とでも言うべきものを他者への無茶ぶりや攻撃、呪怨などを通じて希求される方は、残念ですがそうしたものに膝を屈する他の方面を当たってください。私は僧職やカウンセラーの立場にいるわけではないため、そうした領域に関して私にできることやすべきことは何一つありません。仮にできるとしても、そうしたリソースは全て家族・友人・パートナーその他の限定された人間関係のために温存しておきたいため、そうした時間を守ることに関しては、とても厳格です。

 また一方で、誰もが少し頑張れば知りうることを、さも自分の私有財産であるかのように振る舞い、素人っぽい人がアクセスすることに対して圧力を掛けてくるような振る舞い全般には、(その人個人がある分野において極めて卓越していたり、素朴に“いいひと”であることを理解していたとしても)非常に警戒します。これは友人に対してでさえそういう冷たさを発揮することがあるほどに苛烈です(ある種の“業”に近いものといって良いでしょう)。ある人が生計を立てられる、あるいは社会的栄誉を得られる以上に、貪欲に知識の不平等を進めていくような動き、個人主義自由主義、知識流通に関する原理的な法則性に逆らう動きには強く脅威を覚えます。

 とはいえ、このあたりはケースバイケースであり、行き過ぎると各ジャンルの営業妨害になりうるので、とりあえずは警戒しているという程度の意味しかありません。いずれにせよ、この自分の苛烈さが逆に,一切咎のない別の方々へ向けた“理不尽”かつ“残酷”な行為や施策*4へと結びつかないような努力は必要であると考えています。

 ほかにも自覚していないケースはあるかもしれませんが、個人的性格について明らかになっている、なかなかどうしようもない性質については、以上となっています。もしこれ以外で隠されている特質によってあなたに失礼なことをしでかしていたら、すみません。また、これらの条件を踏まえた上で、私は知的なにごとかに一生懸命なひとが人間として好きですので、微力ながら応援できることができるのであれば応援したいと常に考えています。またそもそも、友人関係を持ったり、恩や尊敬を感じている人に対しては、多少時間を使いすぎてしまうところもあります。その辺が脆弱性といいますか、上掲したNG規範以外の形で色々喋り出す鍵になっているだろうとは自分でぼんやり思っています。

▼「本ブログ記事の著作権管理について」(2015.07.04)

Q. 知財に関してちょっと独特の考えっぽいけど、自分の著作権管理についてはどうしてるんですか?

A. はい。原則 Creative Commons Lisence 4.0 BY (国際)で管理することにしています。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
tricken 作『Trick or Think?』はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスで提供されています。
このライセンスで許諾される範囲を超えた利用の可能性については以下のアドレスもご覧下さい。 https://twitter.com/tricken/

Creative Commons Lisence の説明については こちらを御覧ください。要するに、よりユルい枠組みでの著作権利用を著作者側から積極的に宣言してゆける仕組みです。:
creativecommons.jp

この範囲で利用して頂ければ、私との許諾上のやりとりなしで転用が可能です〔※特定のルールを守りさえすれば、“許諾なしで”というのが、Creative Commons を理解し、運用する上で、極めて重要です。伝統的著作権法のように、原著者に伺いを立てずにフェアユースが可能なシステムが新たに導入されている、とお考えください〕。

また、元々このBlogと連動している @tricken アカウント に関する二次利用,また、Google Driveにて整理・公開している個人用Web活動目録 のうち、@tricken の発言のみで構成されているものについても、同様のライセンスでご利用ください(ただし、他の方の著作権が絡むものも目録に含まれています。そちらについては、Creative Commons License ではなく、伝統的著作権法が適用されます。それらを含むファイルや文書については、個別に当たった上で、くれぐれも法的責任を負ってご利用ください)。

ただし、同人含む商業利用については(そうした価値があるものが入っているかどうかさておき)別途相談戴きたいと考えています。そうした場合は、mailアドレス godandgolem.inc *at* gmail.com(*at* を"@"に置換)宛までお知らせください。 (2016.04.11追記:CC 4.0 (BY-NC) から CC 4.0 (BY) に変更しました。

▼「論文形式での出力について」(2016.04.08)

Q. 論文(査読論文含む)は書かないのですか?

A. 2014年〜2016年より、諸事情あり断念しています。広義のアカデミズムに貢献したい気持ちは変わりませんが、strict なアプローチに拠る学術活動は、2016年現在、行っておりません。一方で、非-正統的な作文等で、アカデミズムの恩恵を活かした作文は幾つか行っています。あなたの望む種類のdiscipline の伝統は継いでいないかもしれませんが(そして私は「あなたの望むアカデミズム」を体現する必然性がないという立場に基づき、あなたを不必要に苛立たせるかもしれません)。

それでも、もし本当にご興味があるということであれば、検索可能になっているはずです。どうぞお探しください。あなたの街の図書館にある、レファレンスカウンターなども、役に立つかもしれません。

▼「情報公開の基準について(その2)」(2016.04.08)

Q.「このような形での情報公開を行っているのは、なぜですか。」

知財の思想について」(2015.07.04)と重なりますが、「個人同士の人間関係を超えて、公開し共有したほうが良い情報は確実にある(私が考えたことの一部も、その例外ではない)」と考えるためです。
仮にある時点で仲が良かった方との関係が万が一悪化したとして、私が考えたことのすべてが、その人にとってアクセス禁止になってしまうとしましょう。

それは、私とその人との関係においてはそれでも構わないかもしれません。ですが、社会全員がそのような行動を是としてしまえば、社会全体にありうる情報アクセスの可能性それ自体が萎縮してしまうことになります。それは、私にとって「望ましい公共性」ではないと考えます。

もちろん、その上で、個人の限界というものはありますから、せめて自分の構築した情報について、どんな人にでも読めるようにアクセスを透明化させているわけです。

言うなれば、私が公共の場で誰かに対して個人的好悪を表明せざるを得なくなったとしても、それを以って個々人の @tricken に関する情報アクセスが制限されるようなことがない、そのような形での情報開示を、私は行っています。*5

▼「現在の動向について」(2016.04.09)

「Q. 最近は何をしているのですか?」

2016年現在、具体的なことは開示していません。情報公開の基準の中に、私のプライベートおよびプライバシーは含まれていません。(類推可能ではあるかもしれませんが、何もかもを開示することに意味はないと考えています。)

Web上で特定の小さな、気になる論点・争点(issues)について、ごく限られた時間内で*6手短に小さな私見を呈示することが可能な程度には、私は元気に過ごしております。どうぞその件についてはご心配なきよう、どうぞよろしくお願いします。

▼「近況を騙る人物について」(2016.04.09)

「Q.あなたのことについて、何か知っているそぶりで語っている人がいるのですが、それは事実でしょうか?」

まず大前提として、ごく一部の友人に対しては、常識の範囲内で、近況を伝えている場合があります。

しかし、それは友人だからこそ、という制約があります。たとえば、公の場で、不十分な情報に基づき、訳知り顔でアテンションを稼ぐ種類の方は、2016年現在時点での私の友好関係からは外れております。

そして、本題です。もし、あなたの視界に、@tricken の個人情報に関する、不正確な情報に基いて憶測まじりの記述を行っている方が見受けられた場合、その方は――少なくとも2016年時点では――「現在の私の動向を精確に知っているような」「友人」という2つの条件を、満たしていません。なにより、私の精確な個人情報を知る方は、まず公の場で「私はあいつのことを知っている」と公言することはなく、勇気を持って直接{対面,電話,手紙ないしEメール等}を通じて、適切な忠言・叱責をしてくれる方々ばかりです(それが、ありがたき友人というものだと思いますし、私はそのような友人をこそ大切にしてゆかなければならないと考えます)。

また、仮に、その知ったかぶりの方が、もし過去の時点で真に友人関係であった事実があり、また現時点でも友人なりの気遣いの顕れとして、そのような発言を繰り返しているとしましょう。しかしながら、それでもまだ問題は残っています。なぜなら、現時点でその元友人が行っている行為は、個人情報の攻撃的な漏洩である以上、民事上は【ストーキング(つきまとい行為)】に属すると考えられるのです。

そのため、ストーキング行為の抑止が収まることが保証されるまで、私はその方の個人情報の(思い込みに基づくデマを大いに含むような)漏洩を、友人顔・訳知り顔で行っている状況を――同じ状況で苦しめられる過去・現在・未来の方々のことも含めて考えた末――許すことはできませんし、真に受けるような対応をすることも決してできません。*7

たとえ主張の本体に鋭い洞察があるとしても、それが特定個人や組織の情報を漏洩させるような“汚染”がある場合、それを公の場で再言及してしまうことは、【ストーキング行為】のいたずらな許容・看過・加担を招きます。私はそのような事態に加担することを、個人の倫理観の表明を賭け、決して許容することはありません。主張の適切性を信じる諸個人は、意図はどうあれその個人情報漏洩という“汚染”を自らの言説から退ける義務を負います。

また、上掲のクレームは、あらゆる「通常の批判」よりもずっと手前にある、法的に冷静な理解が求められるものであることに、注意してください。「違法な好意」なるものは、仮に存在するとしても、存在するものとして扱うことは難しいということです。

上掲の理由により、私はそのような【ストーキング行為】、ならびにそのような行為を残念ながら一時的に体現してしまっている個人・組織とは、距離を置くことにしております。また、皆さんに置かれましても、そのような無責任な言説を取る個人・アカウントについては、積極的に無視してくださるよう、ご理解とご協力をよろしくお願い致します。

その上で、私の個人情報についてどうしても精確な情報を知りたい、ということがありましたら、先述したメールアドレスにて直接ご相談ください。

最後にもう一度、重要なことを繰り返します。どんなに互恵的関係がありえたとしても、公の場で個人情報を漏洩するという加害行為に加担することは、それまで互いに積み上げてきたどんな行為の価値も、容易に損ねてしまうものです。そして、現代社会に暮らす以上、そのような行為は、できる限り率先して、互いに慎む必要があると考えます。

ひとたび起きてしまったことは覆したり償ったりすることは難しいとしても、私も、これを読んでいるあなたも、できる限りそのような不適切な事態から距離を置けるよう、努力してゆきましょう。

▼「Twitterにおけるブロックの基準について」(2016.04.08)

「Q. Twitterで、あなたにブロックされています(或いは、ブロックされていたことに気づき、不愉快な思いをしました)。なぜブロックしたのですか?」

A. Twitterには日本語圏だけで何百万ものアカウントがあり、私のTwitter歴も長くなってきました。そのため、個別に分け入っていかなければ、なぜブロックしたかの確認はできません。また、確認することも、その時点から遡って考えることはとてもむずかしいことでしょう。すみません。

ただし、ブロックの基準として、いくつか“自認”しているものはあります。ご参考になさってください(もちろん、“自認”しているだけのものであり、これを超えた判断基準がないとは言い切れません。人間としての私の至らなさが存するということで、どうかご了承ください)。

  • 事由a. 関心をもつ元々の論点(issues) の齟齬が大きくなりそうであるため、実際にWeb上でコミュニケーションを取ると不意に怒らせてしまい、相互に消耗するかもしれないと考えた(かもしれない)。
  • 事由b. 「知財の思想について」 で挙げた例外則に反していたと感じた(かもしれない)。*8
  • 事由c. 友好関係にもとづき、個人情報を提供したことがあるが、その個人情報をWeb上で流用し、私個人の公的な信用関係に危害を加えていたため、その後の個人情報に関わるものを一切提供したくないと意思表示をしたかった(かもしれない)。*9

なお、誤解して頂きたくないのですが、ブロックといったサービス上の操作を離れた、通常の意味での関係の修復等に関しては、多大な恩義のある方々も含め、常に検討しています。

けれどもそれはWeb上よりもまず伝統的な関係(つまり対面での会話や電話、手紙(Eメールやチャットを含む)等)を通じて、実際に修復されるべきであると考えています。Twitterというプッシュ型のサービスで優先的に関係を修復すべき理由というのは、私にはまったく思いつきませんし、Twitterその他のWebサービス上で何かをされていても、そもそも「何も起こらない」、ということになります。

▼「ブロックの解除申請手順について」(2016.04.08)

「Q. Twitterで、あなたにブロックされています。ブロックを解除してください。」
A. 基本的には、すでに上掲したメールアドレスを窓口として、個々人で申請をお願い致します。ただし、直接ご相談下さったとしても、吟味した上で、解除を行わない場合はあります。あらかじめご了承ください。

なお、ブロックの有無に関わらず、Web活動を含む @tricken の(別名義含む)あらゆる活動は、ブロックされているかどうかに関わらず、各自で自由に追跡することが可能です(私がブロックを気軽に行えるのは、そのような仕様になっているためです)。たとえば、2016年元日に投稿した記事に書いた活動まとめなどをご参照ください。*10

▼「情報公開の取り下げに関する申請手続き」(2016.04.08)

Q.「あなたの公開している情報が、私個人、および所属する組織に対して、少なからぬ不利益を与えています。できれば取り下げて貰いたい。」

A. まず、仮にそれが事実であるならば、そのような事態を招いてしまったこと、心よりお詫びしたいと考えています。
その上で、個別の窓口としては、やはり上掲Eメールアドレスより、個別にご相談ください。その際は、直接に迷惑を被っている事実について、ぜひとも具体的に教えて頂けますと幸いです。
もしかすると、私は、その情報を、公共的に共有すべき観察・知見があると信じて書いたかもしれません。そのことが特定の利害関係において誤りであった場合、それを何か他のアプローチで叱責されるよりは、直接迷惑を被っている事実に基いてご相談頂いたほうが、快く取り下げる心構えができると思います。「そのようにしてしか書き得ない」ことであれば取り下げることを躊躇するかもしれませんが、別様の書き方で類似の真実に近づけるのであれば、それは私の方で努力すべきことです。いたずらにあなた個人や、あなたの所属する組織を攻撃してまで実現すべき文書の呈示ではなかったかもしれません。
そうしたことも含めて、ぜひ一緒に考えてゆきたいと考えております。そのような被害、ないし被害リスクの事実がある場合は、ご一報ください。誠実に相談に応じたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。

▼「その他、特別対応について」(2016.04.11)


「Q. 〜〜といった対応をしてください。」

A. 基本的には、個別にEメールにてご相談ください。相互フォローの場合はDMでも構いません。電話番号やSkype IDをご存じの方はそちら経由での打診でも問題ありません。
 また、FAQや最新の運営レギュレーションに既に記述している事由に基づき、各人にとって“当然、為されるべきだ”と考えられる対応を敢えて行っていない場合はあります。そのような対応の変更も含む特別対応をお望みの方は、やはり、個別にご相談ください。FAQおよび運営レギュレーションの外側にある特別対応は、Eメール等の、当方が定めた窓口を除いては原則として発生しないとお考えください。*11


▼「ハンドル(Twitterアカウント)の由来」(tricken 2011年, 2015.07.04修正)

Q. ペンネーム(ハンドルネーム)の由来を教えていただけますか?
A. 所属していた高校の部室に『獄中記』と呼ばれる部活ノートがありました。そこでのハンドルが「トリック〜〜」で始まる、今でいうところの厨二病的なものでした。(そもそも先輩たちが使っていたものからして「菜津子は二歳。」とか「十字軍はみた。」とか、そもそもこれらは私のものを含めて、ハンドルというよりひねったラジオネームのようなものでした。)
 で、そのうちに「トリック〜〜」の先がめんどくさくなったのと、先輩にしばしば「Tくん」と呼ばれていたのがメール上でさらに転化して「とりっ君」となりました。
 その当時の先輩方はいまだに元気に面白い話ばかりをしており、2015年05月までの活動は以下にまとめています:
「ヨタバナシ 関連主要目録」[DB]『ヨタバナシ』関連主要目録 - Google スプレッドシート

余談ですが、英語の “tricken” という言葉は、英語圏ではじゃっかんナンパなスラング(動詞)として流通しているらしいので、その点は少し失敗したなと正直思っています……。

▼「理論社会学だけを特化的に学びたい時の本」(2015春,2015.07.04修正)

Q. 理論社会学だけを特化的に学びたい時、どの本を読めばいいでしょうか。

A. 悪いことはいいません、理論とか実証とか、とりあえず何も考えずに『社会学文献事典 縮刷版』 を買って、気になってる“理論っぽい社会学者”の主要文献として挙げられている項目を全部読んでみてください。

 少なくとも「理論社会学」という大きな枠組、それ“だけ”で文献読解を続けようと思っても、笑ってしまうほど“ほんとうに” どこへもゆけないはずですし、途中でくたびれてしまうでしょう。

▼「社会学の方法論の良い概説書」(tricken 2015春,2015.07.04更新)

Q. 社会学の方法論の良い概説書はありませんか?

A. “方法論”を「論文作成に到達しうる程度の」と限定を加え、その上で信用できる和書を3つほど挙げておきます。

社会学の技法

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社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論

方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで

方法としてのフィールドノート―現地取材から物語作成まで

 このラインナップはやや質的研究寄りですが、数値的な感覚については統計学や経済学の教科書も入ってきてキリがなくなってしまうため、定性的な研究“でも”共通して通じる考え方を学びながら計量を見ていくのがいいと思います。

 その上で、“概念”(concepts) と “含意”(implications)とが指すものについてしっかり考えられるようになれるかどうか、というのが、読み手に限った場合の社会学入門の最初の関門超えとなるように思います。

▼「社会学」が指す意味範囲についてどう考えているか(tricken 2014頃,2015.07.04修正)

Q. 未だに社会学の定義が分からないのですが、社会学って何なんでしょう。

A. 日本の社会学が、基本名乗ったもん勝ち、玉石混交……そんな状況をみて、混乱させられたり、嫌気がさした上でのご質問なのかもしれません。広義にはそれがママ“社会学なるもの”ということでも構わないような気がします(正直なことを言えば)。

 ですがそういう回答を期待されての質問でもないと推察しますので、何が社会学であると受け取るべきかずっと迷っている方向けに、2014年01月時点で私が考える、狭義の社会学の定義をお伝えします:

(1) 社会学/sociologyあるいはそれに関連する研究分野であることを表題に関した雑誌/ジャーナルに、査読を経て乗っている、そのような近現代査読制度によって強度の確認が為されたテキストであること(あるいはそうした査読論文を根拠の大半として成り立つに至る、独立したテキストであること)。

(2) [2-a]単に当該テキストにおいて取り扱われている題材が社会内に存在する、というだけではなく、[2-b] その取り扱いについて、査読論文群の連鎖の中で何度も用いられたり、批判的に検討されたりした、対象への近接手段(approaches)についての、先行言説群に対する明示的・構築的な文脈理解が十分に示されていること。

(3) 上記2点の言説空間に関して、どんな形でもいい、とにかく細やかな言説的/実践的貢献 (contributions)を残そうと意志して行われ、実際に呈示された発言やテキストであること。

以上3点を一通り満たすものが、混乱せずに済む「社会学/sociology」にまつわる、一応は“正統的な”と呼びうる著作群である、ということになるでしょう。

たとえば、American Sociological Review という雑誌、日本なら『社会学評論』という雑誌などが、典型的な社会学の言説の一例ということになるでしょう。もちろん、それを以って全ての社会学的な試みが尽くされるわけではありませんが、少なくともそこに載っている査読論文は、いずれも何らかの形で、先行する或る議論の価値を尊重し、かつそれらを新たな議論に向けて再調整し続けていることが読み取れるはずです。

 余談ですが私は、「米英仏独で行われている社会学の議論だけが、社会学と呼ぶに値するものだ」などと、敢えて“強い主張” を流通させることを通じて、非-専門家やその他の研究者を巻き込んでまで自己を奮い立たせる social identity 補強作業を目指すような、そういった種類の主張をするつもりはありません。ただ、多くの優れた最先端の社会学研究が、邦語には訳しきれないほど膨大に海外に存在し、しかもその大半が英仏独の三つの言語圏で主に進んでいるということもまた、否定しがたい事実です。その水準では、英語・仏語・独語それぞれの社会学研究言説を無視して社会学の先端にたどり着くことは事実上難しい、ということについては、確かにそう言わざるをえない、と理解しているものです。

しかし、だからといって日本語圏に入ってきている限定的な社会学言説が役に立たないかといえば、それはたとえ多少先端より遅れているかもしれないにしても、そのようなことはない、と言うべきかと考えています。先端にはずっと未来にしか判定しえない各自の先端がありますが、有用性を論じる段階では多くの共通点があるからです。

 そういう“ディレイで効いてくる” ところがある学術の価値を、先端の人や紹介者の人が自分のポジショントークのために、俯瞰する努力を疎かにしているようにも見える一部の状況について、自分は(自分自身もその陥穽にいつでも落ちうると自認した上で)コミットしない、ということを決断し続けています。
 これは社会学に限らず、知識・言説・行為の関わるどのような領域においても、率先してそのように動きたいと念じてそのようにしています。うまくいかないこともありますから、そこは厳しく見ていただきたいところですが、自分で直すように努めます。

なお、厳密に社会学の論文の書式を学びたいという方は、翻訳版も出ている以下のものがおすすめです。

シカゴ・スタイル 研究論文執筆マニュアル

シカゴ・スタイル 研究論文執筆マニュアル

▼「社会学者の誰それをどう評価しているか」という質問一般についての前提(tricken 2015春, 2015.07.04追加)

Q. バウマンはどう評価していますか?

A. 誰それが誰それを高く評価した、低く評価した、というような枠組みに囚われると、そもそもの社会学者の評価を大きく見誤り続ける、と私は考えます。書くということとは別の次元の話になってしまいますから。

 とはいえ、論文執筆作業を試みた中ではほぼ使ったことがありません。文献を探索していて、「◯◯社会」と言う提言以上に含意(implication)が見出された場合にはもちろん使うでしょう(そしてそうしたことは、立ち上げたtopicによっていつでも、十分に、可能でしょう)。バウマンも同様です。自分にとっては「バウマン」という人格がそこに居てそれを評価する、という発想ではなく、「在る時期のバウマンの言説」(たとえば、(Bowman 2000)と表記されるようなもの)こそが大事で、その際にしかバウマンに興味を持つ必要はない、と考えています。これはバウマン以外も同じことです。また、原則として、訓練を受けたのであれば――所詮そういう流派に属しているだけの話ですから、「(人間であれば誰でも)そうすべき」、というようなことは絶対言えませんし、そういう規範を人類に全面適用する人とは付き合いたくないですが――そのように考えなければ、訓練を受けてきた視座との整合性や一貫性がとれない、つまり「筋が通らない」、ということになります。

 書き手としてのポジショニング、言説戦略上の立場、それ以前のそもそもの前提として「書き手が一体どういう文脈、地平に立とうとしており、その文脈はその書き手からどのように捉えられているのか、ということの、地道な実演」を抜きにした、誰それの評価に意味が無いというのは、たった今説明したような仕組みとなります。社会学の規律訓練(discipline)の中にもまた、こういうものが存在しています。

 カタカナ語としての「レビュー」という言葉は、語感としては比較的軽いものです。しかしながら、学問その他における「レビュー論文」と言う場合の "review" には、「書評」「見返す」という意味以外にも「再検討」「再吟味」「再評価」というような意味があります。つまり、ある時期にある特定の手段であるテキストを見た場合、過去の別の時点で多くの人が読んでいたものとはぜんぜん別の世界が、豁然として開けてくることもあるかもしれないわけです(「それってZENですか」みたいな話ですが、まあそういう要素もあるかもしれません)。一度見ただけで分かった気にならないように、という文化が、分野問わず近現代の論文制度を支えている、ということを考えれば、「二度見する」「何度も見返す」をやらないと、誰それが言っていることの多相性が明らかにならないということは、じわじわと共有していただけるものではないかと考えています。

▼「社会学に何を期待すればよいか」(2014年頃,2015.07.04修正)

Q. 外の一般的な人間は社会学に何を期待していればいいですか?例えば分かりやすいべき論は社会学に求めるなとか。

A. 「人間が社会生活において関与する諸要素{物質,概念,言語,知識,表象,情報,認識,習慣,集団,儀礼,規範道徳,法,行為,やりとり,媒体,装置,etc.}などを、使っているようで使われてしまっている」というような倒錯的な状況を、分解掃除するためには便利であろう、ただしそれを見通すための概念的処理について、一筋縄ではいかないほど結構厳密なプロセスを経なければならない……といったあたりでしょうか。

 そして、そうした処理を私達が行うべきかどうかは、「どんな状況に巻き込まれてしまっていると理屈で言えるのか」「巻き込まれてしまっているその状況自体は、私達にどんな点で具体的な利益/不利益をもたらしてしまっているのか」を規定する手法次第で変わります(こうした考え方を、社会構築主義アプローチと呼びます)*12

その上で、前者を担うのが(社会思想というより、明確な概念の分析手法として確立しつつある)社会学理論であり、後者を担うのが厳密な量的/質的社会調査、ということになるでしょう。

▼「気になっている◯◯社会」(2015年春,2015,07.04修正)

Q. 再帰的近代とか後期近代とかポストモダンとかリスク社会とか液状化社会とか排除型社会とか色々な時代規定があるようですが、とりっくんさんとしては「現代社会」を特徴付けるなら、どのような社会なのだと思いますか?

A. 単一ラベリングだけで社会を語り尽くすことは実質不可能ですから(そういうのは、今後成功するかもわからない学術的分析の手を確実に止めますし)、基本的にベタにそういうことは考えないようにしています。

ただ、(社会学全体ではなく、あくまで自分が)いくつかの大事な“要素”として抽出して受け止めている、注目しているおおづかみな現象はいくつかあります。別に自分が見出した original なものではないですが、2015年の、文章に成らない範囲での雑感として読み流してください:

(1) 【情報飽和】(infoglut)。日々出てくる情報を個人の側で体系化しきれない情報の奔流に、どうやって個々人が対応するかという答えに窮しているという状況があります。そこに関連して、目敏い人たちが、情報の“縮減”とか“減算”とかいった技術に注目したプログラムやサービスを展開してくれるんじゃないかと思います。情報ディストピアと真剣に向かい合わなければならないのは、“減算現実社会”とでも言えるものが、テクノロジーの形を取って到来するその一歩手前くらいのタイミングになると思います。

(2) 【非正規戦】(irregular warfare)。もう少し大きく言うと“世界内戦”*13 というような切実さと緊張感を帯びた術語で捉えられる状況認識も核のひとつにはありますが、それ以外も含みます。近代にたまたま出来て広がった国家の制度とはやや異なる発想から出てきたまとまりが、既存の国家政体に攻撃を加えるということが当たり前になってきた際、それまでの国民国家的タテマエはどうしても揺さぶりをかけられます。「万人の万人に対する闘争」とまでは行かずとも、「文化的tribe(s)の、国民国家的なものに対する闘争」というものは(イスラーム圏を中心に広がるグローバルジハード*14 のような事例だけに留まらず)色んな所で出てくる(あるいは既に全面化しているとも言える)んじゃないかなー、と、ぼんやり思っています。あくまでぼんやりと。

(3) 【野蛮への回帰】。(2)と関連することでもありますが、ヘイトスピーチをはじめ、一度近代的な社会思想が嘲笑されるような時代が来てますが、この問題は最近降って湧いたわけでは決してなく、たまたま今までうまく行っていたように視えたもろもろのものが崩れた結果、緊張関係として維持されていた振る舞いが破壊され、「野蛮でもいいか〜」という結論に社会の趨勢が大移動してしまった結果ではないかと推測しています。

これが一時的な回帰となるか、また近代以前のものすごい暴力的な世界がむき出しのまま22世紀に続いていくのかはぶっちゃけよくわからない、としか言い様がないんですが、とにかく今まで順々に進展してきたかのように見える人権思想もろもろのものは、それを踏みつけにする人々(時には権力者)と対峙してゆくことを余儀なくされた人々の間で、一度スクラップ&ビルドされることになるのだろう、と推測しています。

 ちなみにそういう近未来がもっとも落ち着きやすい先は、ステレオティピカルなサイバーパンク的世界観、つまるところ「ハイテク&ロウライフ」な社会*15、テクノロジーばっかり進化して人権は蹂躙され、人々は手持ちのテクノロジーを使って小さな非正規戦を繰り返す(が撃退される)というような世界になるかと思います。

(4)【学習環境調整】。何言ってんだこいつ、て感じですが、コミュニケーションの一種に即席のゲームデザイン/ワークショップ/ことば遊び といったものが強力に実装される社会を想定しています
*16。これはテクノロジーの支援によって可能になると推測しています。【情報飽和】がさらに進んだ際に出てくる別の側面ですね。「私の伝えたいことは、この仮想環境と戯れてみればわかるよ」と呈示する、それが自分語りにもつながる、というような、特殊なdigital-narrationの敷居がものすごく低くなっている社会を想定しています。私は社会学とは別に game studies という学問*17にも長らくコミットしているため(そことの結合に苦心して、社会学的な貢献を一部……いや大分……疎かにしてしまったという悔いがありますけれども)、最終的にはこの種類の希望を学術的に見いだせるような貢献が、自分の手許でもできればいいな、とは希望しています。たとえ実現できなくても、自分がぼんやりと視えているかもしれないあかるい未来に向かって、心身の保つ限りにおいては、手は止めたくないという思いがあります。

 総合するに、自分にとっての現代社会のtopicsは、上記のような視点{【情報飽和】【非正規戦】【野蛮への回帰】【学習環境調整】}において興味深く、分析的に考える価値がありそうだ、という風に見えています。ただし、こうした興味が実際に solid な学術的成果になるかどうかはまた別問題であり、掘ってもsociological contribution に結びつくものは何も出てこないかもしれません。それはそれで良いと思います。独りの人間の中で solid に言える部分ばかりになれるなら、何度でも蘇って勉強したいところですが、現代のテクノロジーではそういうわけにも行きません(100年後はわかりませんが)。

▼「機能主義」について(tricken 2014,2015.07.04修正)

Q. 機能主義とは何ですか?今も有力な考え方ですか?とりっくんさんはどう評価していますか?

A. 一般的には、

(1) タルコット・パーソンズとその後継者たちがある文脈において凝集させてきた、行為の社会理論のことを“ユルく”指す場合

(2) それ以前の(デュルケム、ミード、ラドクリフ=ブラウン、のちのゴフマンなど)エスノグラフィックな作業を通じて人々の行為を分析してきた、過去のバラバラな古典的アプローチを“ユルく”指す場合

の2つが、社会学的に有効な術語としての[機能主義]じゃないかと思ってます(もっと legitimate な話は『社会学文献事典 縮刷版』(最初のFAQに掲載済)が2015年現在は入手しやすいため、一冊手許に置いてみることを強く推奨します)。

 その上で、機能主義は、それが有効かどうか以前に、重要な古典的議論であると受け止めています。

 ただ、学説史的にそれを直接“ツール”として使って何ごとかを言えるようなものが今あるかというと、それは――少なくとも direct な形では――ないと思います。要するに、ある人が「何ごとかを言いたい」と念じたとき、そこで機能主義的な議論が有効かどうかは、その scrap-heap から何を取り出してくるかという各自の目利きの技量(と努力)が、機能主義それ自体の成果とは別に、論者自身の手許において、問われ直さなければならないわけです。

(X.ある論説群に価値があると専門的に言いうることと、Y.それを引用した上で価値を呈示できるかどうかという問題、このX, Yは、本質的に別の問題として捉え直されなければ、ある当事者の手許で知的生産がほとんどできない――という事実は、わかりづらいことですが、とても重要な事です。私もいつ陥るかわからない落とし穴ですし、重々気をつけるようにしています。)

というわけで、act あるいは action について、それらを集合行動として考えるという分析のうち、{何が/なぜ/どのように}有効であるかという問の枠組みに少しでも関心があるのなら、宝の山(ゴミ山かもしれませんが)探しをする動機は生まれやすいかもしれません。

宮台真司について(tricken 2014頃,2015.07.04加筆修正)

Q. 昔から評価が分かれていますが、宮台さんは全体的に凄いのか、社会学的には十分凄いのに専門外では駄目な感じなのか、両方で駄目な感じなのか、どれなのでしょう。凄いというのは、客観的に卓越した実力や功績があるという程度の意味で構いません。

A. 少なくとも

(1) 制度論(パーソンズ、ハバーマス、ルーマンなどの、いわゆる機能主義社会学〜コミュニケーション理論系社会学)についての、卓越した書き手として *18

(2a) 90年代のサブカルチャー的なもの、特に援助交際的な現象に対するフィールドワークから何事かを語るという流れを生み出した書き手として *19

(2b) 派生として、「社会学者のメディア的役割のひとつとして、社会評論家であることが期待される」という流れを(見田宗介真木悠介よりも更にライトな形で)促進させ、またそうした書籍の市場を一時的にせよ確立したこと*20

(3) 単純に個人としての瞬発的な知的反応力に優れ、議論に強いこと

(4) 学者としてではなく、恋愛事について、学者としては滅法強いこと(ナンパ師であること)

のあたりでの評価は、高いのではないでしょうか。
そのうち教義の学問的営為、つまり誰か別の issue を持つ人にとって参照される可能性の高いとして挙げられるのは(1)(2a) ですかね。

 ちなみに私が宮台さんに対して個人的に凄いと思ったのは、園子温監督作品『愛のむきだし*21における新興宗教のメンター(教団の教師的立場)の役割を、フルアドリブでやってのけていたことでしょうか。90年代カルト的なものを90年代の学問的スターが再演しているという時間軸のねじ曲がった事態も含め、非常におすすめです。

▼ ファンディング等の方針について

(2015.08.31Mon 追加)

Q. 研究活動で悩みが尽きないようですが、クラウドファンディングや融資用の口座開設等は行わないのですか?

A. これは自分自身の不甲斐なさによるものでもあるのですが、(社会学系にせよ、ゲーム研究系にせよ)いわゆる「助成金」に提出する前に様々な葛藤があり、その葛藤を「公に呈示可能な経験科学」の範疇に収めてゆくまでに結構な時間がかかってしまいました。(その反省を踏まえたもののひとつが、2015年07月以降に開始したオンライン読書会であったりします)。

その上で、テキストを断続的にリリースしていくことには、確かに一定の労力(と、それを下支えする)資金がかかります。ですから、「こいつ面白いな」「彼の“やっていること”が面白いかもしれないな」と言った関心を少しでも支援していただけるのであれば、それはとても助かります。*22

また、自分は実験科学系のリサーチでなく、あくまで文献探査とその論理的整合性の突き詰めが主な作業になるため、関連書籍をAmazon等の通販で入手することが予算の使い道の大半となります。*23そのため、気軽な方のファンディングは、どうぞ口座振込等ではなく、Amazonギフト券のメールタイプにてお願い致します。(以下URL参照)

Amazonギフト券- Eメールタイプ - Amazonベーシック

Amazonギフト券- Eメールタイプ - Amazonベーシック

godandgolem.inc *at* gmail.com 宛

また、研究の内外にかかわらず、今後何らかの形で電書・書籍等をリリースする可能性があります。どなたかプロの編集を介するか、自分で出すかはわかりませんが、もし今後そうしたものが出た際は、ぜひご購入ください。出すからには、一定度以上の知的構造を備えたものを切り出してゆきたいと考えています。

*1:特にスガシカオ,Sly Stone,Donny Hathaway,Prince,Alissia Benveniste, Marvin Gaye安藤まさひろThelonious Monk菅野よう子(以上音楽),William Gibson, Bluce Staring,伊藤計劃(以上サイバーパンク),藤平信一,斉藤孝(以上身体論),梅棹忠夫川喜田二郎野口悠紀雄,高畑正幸(以上文具運用=知的生産技術),その他ジャンル無分別・順序不同で列挙すると寺田寅彦佐藤亜紀村上春樹,Francis Ford Coppola,James Camelon,呉 宇森(John Y. Woo),Christopher Nolan,Jan Švankmajer,宮﨑駿,平尾隆之細田守宮藤官九郎,kihirohito,岡野玲子木村紺今井哲也荒木飛呂彦黒田硫黄三笠山出月,岡田あーみんこうの史代九井諒子,小倉涌,Ken St. Andre,Marc Miller,Sandy Petersen,Jordan Weisman,Paul R. Hume,Tom Dowd,Stephen Kenson,芝村裕吏河嶋陶一朗,みやじよしたか,以上列挙した方々の仕事を深く尊敬しています。

*2:概ね古い順位に、Vasubandhu,Aurelius Augustinus,天台智顗,空海,澄観,宗密,朱熹,凝然,王陽明,三浦梅園,John Stuart Mill,福沢諭吉,Charles Sanders Peirce,Gottlob Frege,George Herbert Mead,岩下壮一,Jakob von Uexküll,Alfred North Whitehead,Ludwig Wittgenstein,Norbert Wiener,鈴木大拙,Erving Goffman,Friedrich Hayek,井筒俊彦,Julian Jaynes,Hans-Georg Gadamer,John Rowles,Howerd Becker,Jared Diamond,松岡正剛荒俣宏西垣通,Greg Costikyan,Lawrence Lessig,結城浩鈴木健

*3:この場合の「自由主義」とは、特にフリードリヒ・ハイエク的な知識社会論を念頭に置いています。

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

市場・知識・自由―自由主義の経済思想

*4:これはリチャード・ローティ的な意味において

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

*5:また、そのような作業を経て、私は個人の好悪に関する短期的な表明を、自己に対して免責しているように思われます。

*6:たとえば2016年04月現在、Twitterに滞在できる時間は、閲覧時間を含め日に30分、長くとも1主題に限り90分と定めています。

*7:ストーキング行為の許容は、最悪、社会的ないし物理的殺害を招きます。ともあれ個人情報とは、ストーキング行為を抑制するために個々人が適切にかつ相互に管理すべき資源(resources)です。その操作について不適切な行動をしている人は、法的措置に訴えられる前に、その点について深い反省をする必要があると私は考えます。

*8:つまり、(a) 「お前はどうせ誤っていると思うが、私が自己正当化の素材に使いたいから暫く語ってくれたまえ」といった、自己の social identity に汲々としている態度やふるまい, (b)「知識はあらゆる意味において無料だと思っており、あなたの時間も無償だと考えていいはずだから、ぜひとも私に隷属して教授してくれたまえ」といった、人の時間の有限性を考慮しないふるまい に該当していると私の方で判断してしまったことが、一度以上ある。〔もちろん、ブロックが為された後の或る時点において改めてどうであるかは、また別途再検討されるべきことではあるかもしれません。〕

*9:これについては、長年友好関係にあった友人でも、ごく一部のケースで行われたことがあります。さらにごく一部は、この文面が読まれた時、いまだ現在進行形であるかもしれません。いずれにせよ、そのような事態が起きた場合は、社会において生活する一個人として、厳しく対処せざるを得ません。意見の相違についての信頼関係と、個人情報の(仄めかしを含む)流用によって損なわれる信頼関係とは、質的に区別しうるものであると、私は考えます。

*10:http://tricken.hatenablog.com/entry/20160000

*11:これは、窓口の絞込により当方の負荷が軽減されるといった利点のほか、「FAQを読み尽くしてでも特別対応を申請する」だけのモチベーションが、当事者にとって明確に存在するような種類の依頼を除き、私が考慮する必要がなくなります。そうした点では、私がWeb上での活動を続ける上で、非常に楽ちんな基準となっています。したがって、Eメールに相談していない現時点で、当方に「特別対応」をお願いしたい方は、このような対応基準が存在することを改めてご確認頂けますと幸いです。

*12:

Social Constructionism

Social Constructionism

*13:

「世界内戦」とわずかな希望〜伊藤計劃・SF・現代文学 (TH Series ADVANCED)

「世界内戦」とわずかな希望〜伊藤計劃・SF・現代文学 (TH Series ADVANCED)

*14:

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

イスラーム国の衝撃 (文春新書)

*15:[asin:B004XOZ8B0:detail]

*16:

*17:

An Introduction to Game Studies

An Introduction to Game Studies

*18:

権力の予期理論―了解を媒介にした作動形式

権力の予期理論―了解を媒介にした作動形式

*19:

制服少女たちの選択―After 10 Years (朝日文庫)

制服少女たちの選択―After 10 Years (朝日文庫)

*20:

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

*21:

*22:事実、このQAに留まらない多くの人のさまざまな支援を戴くことで、かろうじて自分の活動(特に2008-2015頃の文筆活動)が成り立ってきたことがあります。それは確実に自分の糧となっております。いつもありがとうございます。

*23:また、口座等を開設するには、さまざまな地理的制約がつき、なかなか面倒であることがここ数年の調査でわかり、その方面は断念してしまいました