服部 正也著・黒河内 康ほか編『援助する国、される国』(2001)

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服部正也(1918-1999)は、いわゆる開発経済、特技アフリカ経済開発の領域における実務家として著名であり、国内外に大きな貢献を残した人物である。特に1972年にかれ自身の(1965-1971の約6年間にわたる)ルワンダ中央銀行の総裁として勤務した経験を綴った『ルワンダ中央銀行総裁日記』(1972年・中公新書)は中公新書のロングセラーとなり、また2009年に増補部が追加される形で復刊を果たしている。*1

▼遺稿集であるがゆえの、論理構造の(部分的)脱落について

しかしながら、今回紹介するこの本『援助する国、される国』は、『ルワンダ中央銀行総裁日記』と比べると、readability(可読性)の高い本ではない。なぜか。この本が“遺稿集”であるためだ。



服部正也は、この本の原文にあたる文書が出版される前に1999年に死去している(『援助する国、される国』が出たのは2001年02月10日)。したがってこの本は厳密には単著ではなく、服部正也と交流のあった者のうちの5名が「服部正也氏遺稿編集刊行委員会」を組織し、1999年末から2001年初頭までの約2年間の間に書籍として出版できるまでの体裁を整えたものである。委員として名が記されている者は黒河内康*2・秋山忠正*3・尾田英郎*4・茅根史男*5・河村貢*6である。つまり、全10章の章・節の構成を現在の形にまとめたのは服部正也自身でない、ということになる。

 ご遺族のご希望によって、末尾列挙の五名がボランティアの編集刊行委員会を構成し、二〇〇〇年五月から原稿の整理を開始、原文の考え方の流れをできるだけ保存すると共に、原稿に含まれた重複を除き、読者に読みやすくすると同時に、とかく抜け落ちやすいフレームワークの構成部分を網羅するように配慮した。章の編成はもちろん、小見出しの整理によって、服部氏の考え方が吸収しやすいものになったと思っている。(同書245-246)

 これはべつに、編集委員会の意図が編纂にあたって入り込んでいるというわけではない(むしろそうした要素は見出し難い)。要するに、著者自身の考え方を“アウトラインとして処理する(outline-processing)”前に、著者が逝去してしまったという事実を踏まえて読んだほうがよいということであり、また喩え編集委員会による構造化が最善の解であったとしてもなお読み難いのは仕方がないということを、この本について論ずる際には共有しておいたほうがよいのではないか、ということである。

 文章に格別おかしいところがあるわけではない。この服部正也遺稿集を一つ一つ取り出して読むなら、それぞれがどれも明快な論理に貫かれていることは確かである。

では何が彼の遺稿集を読みづらくしているのか。まず前提として、服部の主張は、以下の3つの意味段落によって構成されていることが多い:

  • (P) 「ある営み(発想・行為・政策)が、さまざまな謬見(調査不足・誤謬・偏見・思い込み・先進国の慣習の押し付け、差別心などなど)に満ちていることが、(たとえばアフリカなどの)開発経済の前進を遅らせている原因の一つになっている」
  • (Q)「そのような謬見に基づいて為される営み(発想・行為・政策)を正すため、過去にこれこれの提案がされた」
  • (R)「しかし、実効力のある法や政策としては、それは実現されたと言いがたい(あるいは、実態としてこの程度の進捗に落ち着いている)」

これら{P,Q,R}、つまりP.【謬見の指摘】→Q.【謬見を正す】→R.【謬見に関する現状】というルーチンを駆使しながら、批判対象を変えつつ何度も周回させる筆致が、服部正也遺稿集における基本的な主張の枠組みとなっている(少なくとも、そのようにみなしてみると分かりやすい)。

しかし、そのように見抜くまで、読解に随分と時間がかかってしまった。むしろ、『ルワンダ中央銀行総裁日記』の明快な narration をもつ記述とは大きく異なるように思われた。事例が細部を穿ちすぎ、全体をよく捕まえていないような粗雑な面があるとさえ思っていた。仮にその読みづらさの原因の根拠を「遺稿集の、他者による編纂」以外に求めてみたたとして、それは何だろうと、訝しみながら読んでいた。

そうしているうちに、ある重要な前提が、服部の文章からは2つほど脱落している(少なくとも、著述において必ずしも力点を置かれていない)ということに気付かされた。それは以下の2点である:

  • (O)「ある営み(発想・行為・政策)が、開発経済の分野において行われてきた(行われている)」
  • (S)「(著者が考える)望ましい真の開発経済のあり方とは、ほかではない、これこれのようなものである」

このO(=「開発経済における事実」)とS(=服部正也の理想とする開発経済政策)とが、服部正也の議論においてあまりに“自明過ぎる”がゆえに、『援助する国、される国』において論述が不足しているように思われるのである。服部正也の思考の内側ではO→P→Q→R→Sという明確な前提と帰結を持っているたかもしれないものが、遺稿集だけを手にとった読者の側にとっては(O→)P→Q→R(→S) という風に、P→Q→R という開発経済実務の内側で無限に格闘し煩悶しているかのようなイメージが、どうしても前景に出てくるのである。大枠では丁寧に説明している面もありながら、記述のセットがミニマルになっているところでは、どうしても前提の抜け落ちた、実務家視点からの苦言と愚痴の連続のような読解感を与えてしまっている。その個々の論点がどんなに正鵠を射た批判であっても、その書きぶりからだけでは構成的な主張として受け取りがたいまま書き残された文面が少なからずある、というわけだ。この点は、編纂経緯を踏まえてもなお指摘されるべき瑕瑾だろう。

▼ 「ルワンダ虐殺」以後

こうした遺稿集の特徴は、服部正也が自著を推敲することによって、もしかしたら乗り越えられたことかもしれない。それが実際に生前の著者自身によって成し遂げられなかったのは極めて残念なことである。しかし、読み終わった今、もしかしたら服部正也は推敲に推敲を重ねてもこの(O→)P→Q→R(→S)の隘路に嵌っていたのではないか、という疑念も持っている。しかし、その疑念は、決して服部の能力に疑問を持ったためではない。問題は取り組んでいる課題の方にある。アフリカの開発経済に関して服部正也が言及した諸問題は、人類にとってあまりに大きすぎるのである。晩年に服部が論じた諸問題を、2010年代の人類は、根本的に解消できているわけではない。

たとえば、『ルワンダ中央銀行総裁日記』において暫定的ゴールとされた「ルワンダの経済発展」も、1994年のルワンダ虐殺という全く別の問題に直面してしまった。

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極東のエリート日本人が1965年からの6年間介入したことは、ルワンダの政治・経済にとって heroic とも言える貢献をもたらしたことは間違いない。一方で、ルワンダという土地に根ざす民族間対立が潜在することを、服部は1960年代のその頃から見抜いていた。遺稿集の中では、ルワンダ虐殺という大事件が起こってしまったことについて、かつてルワンダに関わった人間として心を痛めている下りが何度も見られる。その上で、旧宗主国の政策も含めたより歴史的なスパンで「良い政治」(Good Governance)を目指すべきであるという、新たな開発経済の哲理を再-構築しようとする論説が、繰り返し丹念に述べられる。これは、彼自身の戦いが、大きな枠組の中ではまったく終わっていないこと、そして死の直前まで彼が「良い政治」の実現に向けた努力を諦めなかったこと、アフリカ開発経済における現状の遅滞を良しとせず思索を続けたことを示すものであり、その存念が、遺稿集を通じて痛ましいほどに伝わってくる。

それだけに、彼の論法が(O→)P→Q→R(→S) というルーチンを超えて、より構造的なアウトラインによって整理されなかったことがなおさら惜しまれてならない。類まれなる知性を持っていただろう彼の最後の書籍は、彼自身の知的構造化を十分に経ていないのである。

▼「ミクロ経済学」の徹底によって「制度論」に貫通した思索

そうした難点を踏まえてなお、この遺稿集からは、彼の卓越した知的態度を学びとることができる。

彼のコアにはまずなにをおいても【実務経済学の徹底】があるのは、華々しい経歴からも、またその具体的思弁からも、明らかだ。たとえば遺稿集p142では、このような言及がある。

経済学の諸概念を本来の定義で理解すれば、経済学の原理はルワンダでも通用することを『発見』したのである。」

ここにおいて重要なのは、“本来の定義で理解すれば” というフレーズである。彼はその経歴上、開発経済実務に携わることが多かったが、開発経済において重視されがちなマクロ経済学的な理論ではなく、あくまでミクロ経済政策、つまり「合理的な思考によって経済活動を行う主体」の周辺の制度を適切に整えることの重要性を一貫して指摘し続けてきた*7。『ルワンダ中央銀行総裁日記』も、冒険活劇的な興味関心を省いて経済学的理解に基づいて読みなおすとすれば、その原理にあるのは、マクロ経済学ではなく、ミクロ経済学のアプローチなのである。

だが、それだけでは遺稿集において達成された知的卓越を説明したことにはならないだろう。マクロ経済学/ミクロ経済学の厳密な区分をしたうえで、あくまでミクロ経済学の伝統を“徹底スル”ということは、(服部の証言によれば)多くの実務家にとっても、かなり難しいことのようだ。

その上で踏まえると、服部が駆動してさせている知性は、どうもミクロ経済学だけではないように思われる。 むしろ服部の思弁は、以下の5つの領域を含んでいると見たほうがよいのではないか:

  • A.【ミクロ経済学の原理的徹底】(※既に紹介した)
  • B.【ヒトの合理性を信じる倫理】
  • C.【慣習に関する人類学的省察
  • D.【国際政治史に関する反省】
  • E.【差別に与しない思想的立場】

服部正也は、経済学に基本的な軸足をおきながらも、B,C,D,E(それぞれ敢えてあてはめるならば、倫理学,人類学,政治学,社会学の領域に属するだろう)の、隣接社会科学において考究されてきた種類の知的アプローチを召喚している。特に、アフリカの現地住民の声を丹念に聞き取り調査をしたうえで改めて経済学的合理性のモデルを再演算しようとする科学的態度は、人類学・社会学の質的調査研究者(特に、フィールドワーカー)の態度に通底するものがある。*8 また、これらA,B,C,D,Eを総合する立場は、社会科学においては“比較制度分析”というアプローチも存在する*9。そして比較制度分析という意味での制度論は、まさに古典派経済学の本流から出てきた議論でもあることを、改めて確認しておきたい。

開発経済の実務を手掛ける中で、経済学的思考をより徹底させていった服部正也が、アフリカ開発経済の実態について考究する中で社会科学における広義の「制度論」にかなり近い知的枠組へと思弁を貫通させ、さらにそれを普遍的な哲理へと仕上げようと試みていた、その試みの足跡を、『援助する国、される国』の中には多く見出すことができる。それは、ルワンダ虐殺という悲劇を通過してなお(もしかしたら、通過したからこそ、)強靭な思想的体系性を目指しつづけたものなのだろう。

だが、それが服部正也という authorship において凝集され切ることは、ついになかった。未完のプロジェクトであることを剥き出しにした名著はこの世に数多いが、この書籍もその列に加わっていたと言える。

▼補1:『援助する国、される国』の精読法の提案

 この本に興味があり、今後実際に読まれる方には、服部正也が以下の5段の論法を繰り返し適用していることに強く留意して読んでみることをお薦めしたい。

  • (O)【大前提】:「ある営み(発想・行為・政策)が、開発経済の分野において行われてきた(行われている)」
  • (P) 【謬見の指摘】:「ある営み(発想・行為・政策)が、さまざまな謬見(調査不足・誤謬・偏見・思い込み・先進国の慣習の押し付け、差別心などなど)に満ちていることが、(たとえばアフリカなどの)開発経済の前進を遅らせている原因の一つになっている」
  • (Q)【謬見を正す】「そのような謬見に基づいて為される営み(発想・行為・政策)を正すため、過去にこれこれの提案がされた」
  • (R)【謬見の現状】「しかし、実効力のある法や政策としては、それは実現されたと言いがたい(あるいは、実態としてこの程度の進捗に落ち着いている)」
  • (S)【理想の政策】「(著者が考える)望ましい真の開発経済のあり方とは、ほかではない、これこれのようなものである」

【大前提】→【謬見の指摘】→【謬見を正す】→【謬見の現状】→【理想の政策】という前提を服部正也は駆動している、と見れば、服部の記述はより明晰に理解することができる(と私は考える)。ただし、このうちOとS(【大前提】と【理想の政策】)の2つはしばしば原文において脱落しており、それゆえに服部の遺稿集は、実証的に誠実な記述でありながら、極めて読みづらいものになっている。

この読みづらさを読者の側で克服するためには、たとえば表計算アプリ等を準備して、{O,P,Q,R,S}の5要素を「列」として取り、「行」の方で、服部のさまざまなに批判する謬見を中心として抽出してゆくと良いかもしれない。そうすれば、服部が指摘する開発経済的な問題は、少なくとも効率的に構造化されたものとして看取しうるはずである。

▼補2:服部正也略歴

『援助する国、される国』p257の「服部正也略歴」で把握しうる内容のみ記した。なお、この中で特筆すべきは彼が海軍将校であった時代があることで、戦前-戦中-戦後のどの時代においても、個々の分野である種の“選良”(elite)であったことが察せられるということである。

年(号) 略歴
1918(大正07) 三重県に生まれる。
1918-1941 {幼少時代の7年間を英国ロンドン、3年間を上海で過ごす。父親の都合による}→{長崎県・旧制大村中学校卒業}→{旧制第一高等学校卒業}→{東京帝国大学法学部入学}
1941.12月(昭和16) 東京帝国大学法学部を卒業。
1942(昭和17) 日本帝国海軍予備学生となる。以降、日本帝国海軍の士官として勤務。
1945(昭和20) 終戦ラバウル(現・パプアニューギニア内の都市)で迎える。その時の階級は大尉。
1947(昭和22) 復員し、日本銀行に入行。
1950(昭和25) 米国ミネソタ大学大学院に留学し、財政・金融を学ぶ(フルブライト基金による)。*10
195X-196X 留学からの帰国後、パリ駐在。
1965(昭和40) 日本銀行からIMF国際通貨基金)に出向。IMFからの委嘱によりルワンダ国に「中央銀行総裁」として赴任。
1971(昭和46) ルワンダ中央銀行総裁の任を終え帰国。帰国後は日本銀行に復職。
1972(昭和47) 中公新書より『ルワンダ中央銀行総裁日記』が出版される。同年、同書が毎日出版文化賞を受賞。また同年、世界銀行(=国際復興開発銀行)に転出。
1972-1980 {世銀内で西アフリカ局審議役,ファイナンス担当シニア・アドバイザー、経理局長などを担当}
1980-1983 世界銀行の副総裁に就任(日本人としては初)。
1983-1993 帰国。{シェラトン・グランデ・トーキョウ・ベイ・ホテル社長および会長を歴任}
198X-(不明) {アフリカ開発銀行の「今後の10年の方向を考える十人委員会(Group of Ten)」委員,国際農業開発基金の委員などを委嘱されている
1999.11.29 逝去(享年81歳)

*1:復刊にあたっては、冒険企画局が復刊に協力した経緯がある。4d4l.net

*2:社団法人アフリカ協会副会長

*3:社団法人 協力隊を育てる会参与

*4:敬愛大学学長・慶応義塾大学名誉教授

*5:社団法人 JOCS理事

*6:弁護士。なお注釈における上記5名はすべて2001年出版時の肩書である。

*7:たとえば、遺稿集p159-160

*8:[asin:4762825158:detail]

*9:[asin:4062919303:detail]

*10:年表では学位についての記載なし