渡辺照宏・宮坂宥勝『沙門空海』([1967]1993)

という経緯で出版されている本、『沙門空海』を読んだ。

渡辺照宏宮坂宥勝,[1967]1993,『沙門空海筑摩書房

 渡辺照宏(わたなべ しょうこう,1907-1977)と宮坂宥勝(みやさか ゆうしょう,1921-2011)による共著である。元の筑摩叢書は、戦後に進んだ空海・平安仏教関係の概説書の中でもとりわけロングセラーとして親しまれた本であるらしい。*1 また、上山春平らが1968-1970年にかけて角川書店で全12巻の『仏教の思想』シリーズを刊行した仏教思想再考の潮流を先取りした良質な解説書でもあった*2。戦前に「弘法大師」として、つまり神格化した存在として取り上げられていた空海は、戦後に「人間・空海」として、また平安期を生きた思想家として、捉え直される動きが徐々に生じてきた。『沙門空海』はその過渡期にあたる、総合的な空海論となっている。
 この“総合的”であるということには、良い面と悪い面の両面が含まれている。

▼良い面:1967年における総合的「空海論」概説であること

 良い面としては、偽書や伝説含も含めた空海関連の言及が、厳密な史料考証を踏まえつつ、この一冊に凝集されていることである。幼年期、青年期(入唐前後)、帰国後、晩年の空海の行動について、当時の奈良仏教、最澄教団(=比叡山天台宗)、山岳系修験道、当時の朝廷、大陸(唐)の状況などを入り交えつつ網羅的に解説される。特に文献群の精査については、岩波新書の仏教概論三部作*3を手がけた渡辺が共著していることもあり、詳細を極める。

▼悪い面:その後の出版物の好況と比較しての、相対的劣位

 一方で、その網羅性が、現代において多少の読みづらさをもたらしているという面もある。仮にこれが1967年刊行当時であれば、先駆的な情報の総合に感動することもできるだろう。しかし、その後も空海論は(玉石混交の玉・石を問わずに言えば)おびただしい数が出ており、その中にはより懇切丁寧な、 readablity の高い書籍も出てきている*4。また、空海自身の原文についても、『空海コレクション』シリーズ全四冊*5という形で入手しやすくなっている。さらには、空海が第二に優れた教えとして取り上げた「華厳教学」に関する解説書*6や、最澄の側を主に取り上げることで平安仏教の内実に迫ろうとする著作*7、そして最澄が大いに巻き込まれていた中世アジアの哲学論争としての仏教論理学に焦点を当てた研究書*8さえ出てきている。このような状況において、半世紀前のこの著書にアクセスする意義は、相対的に薄くなっていると言える。

▼推奨される読み方:「空海論」の良質な一時代の参照項(reference)として

 その上で、どういう読み方が推奨されるか。「1967年段階で、空海論についてはここまで調べが進んでいた」という、語彙のライブラリを洗い出す際、この書籍が手許に一冊あることは、極めて有用だろうと思われる。
 素朴に“空海の入門書”にあたるだけならば、2015年現在において敢えてこの書籍を精読する意義は、さほどないと思われる。しかし、“空海にまつわる言説史”を、(宗教学・仏教学系の研究論文の外の、商業出版された著作も含めて)検証するような必要に迫られるごく一部の読者の需要には合致する。「読む」(reading)のではなく、「参照」(reference)するものとして積極的に読み替えるならば、この文庫本は、戦後の空海論の実態を冷静に捕まえる資料として、これ以上望むべくもない懇切丁寧さで応答してくれることだろう。
 「或るテーマについて」「この時代に」「これだけのことが」語られているという事実の集積に価値を重んじることで、この著作は今後も長い命脈を保つだろうと思われる。*9