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内村鑑三『後世への最大遺物』(初版1897)

『100分de名著』の2016年01月回(全4回)が、内村鑑三『代表的日本人』に関するものだった。*1

原本は、岩波文庫で読める。

代表的日本人 (岩波文庫)

代表的日本人 (岩波文庫)

ただし、今回この記事で内容を吟味するのは、『代表的日本人』についてではない。同じ内村鑑三の『後世への最大遺物』という、短い講演録に関するものである。

『100分de名著』全4回のうち、第4回目で、内村鑑三の「後世への最大遺物」についての註釈が(論者の若松英輔により)加えられており、その下りをみてなるほどと思いさっそく読んでみたところ、たまたま自分に引きつけて面白い感触を得ることができた。そしてこの講演文は、読み方を工夫すれば、『代表的日本人』それ自体よりも、公共的に役に立つ(=多くの人の思考を整理するのに貢献する)議論であると思ったのだった。

ただ、具体的にどのように読み方を工夫すれば「役に立つ」と言える見解までたどり着けるのか、自分がそう思えた素材はどのように調達してきたのか、共有しがたいとも思った。そこで、自分が何をどう具体的に取り出してみたのかを、書いてみたわけである。

『後世への最大遺物』については、青空文庫で無料で閲覧できる。*2

なお、内村鑑三が敬虔な、しかし独自の見解を持つ、近代日本を代表するキリスト教徒(クリスチャン)であることは、どこまで説明すれば適切なのか判断がつかなかったため、ここでは所与のものとして、説明を省略した。内村鑑三自身に関心のある方は、各自でお調べいただきたい。また、キリスト教の国内外諸派に関して、ある程度客観的な手引としては、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(朝日文庫)にゆずる。*3

遺物の4分類:{財産,事業,思想,生涯}

『100分de名著』の案内者である若松英輔の整理によれば、内村鑑三が明治27年(西暦1894年)の段階で論じていた「人間個々人が後世に遺せる(優れた)もの」は、大別して以下の4つであるという。

  • 蓄財(財産を遺す)
  • 事業事業を遺す)
  • 思想(思想を遺す)
  • 生涯(生涯を遺す)

この4つを、自分は以下のように言い換え可能であると理解した(原文との厳密な対応があるわけではないが、こう考えると理解しやすいと、読んだ):

  • 蓄財(=その後どのように使われるのであれ、とにかく社会のために残すカネを生むこと)
  • 事業(=自分自身でカネを生み出せないとしても、カネを動かすことを通じて、一定範囲の人々に広義の“功利”を分配/再分配する試みに関わり、一定の成果を挙げること)
  • 思想(=財産の蓄積や事業の成功等の“成否”に関わらないとして、文学や教育や何事かの伝達に関与すること)
  • 生涯(=財産、事業、思想のいずれも遺せないとしても、その記述され得ない生き方それ自体が、なにがしかの形で他者に対して、生きる希望や勇気などをもたらすような、種々の不都合・反対に打ち克つ生き方を志し、さらに実行し続けて、その一生を終えること)

内村「後世への最大遺物」の論理構造は、上記の4つをかなりフローチャート的に整理して語ったものと見える。つまり、「財産、さもなくば事業、さもなくば思想、さもなくば生涯、を遺せ」、という整理を行ったものと見える。

もちろん、このような論法は、ある種、正しい意味で内村鑑三という無教会派キリスト教徒による propaganda という側面が(本来的に)ある。*4 特に第四の「生涯」を遺す、という議論は、広義の宗教思想*5を強い仮定として置かなければならず、そう簡単に受け入れがたい趣旨となっているようにも思われる。

しかし、そうした留保を踏まえたうえで、このある種のフローチャート風の語りには、現代の様々な人生論を突き放して解釈していく手がかりとして使える、一定の説得力があると思われる。

『後世への最大遺物』の説得術について

さて、私は、どうしてそのように評価(解釈)したか。このフローチャート式の議論がなぜ「使える」「説得力がある」と言えるのか。具体的にそうした評価を可能にする契機を四点、挙げてみたい:

(1) まず第一に、「財産を遺す」「事業を遺す」という議論は、近世欧州で勃興し現在も強力な教派として確立している、プロテスタンティズムの潮流と整合的である。*6 内村鑑三は、(喩え無教会主義という信仰様式を選び取ろうと)社会的営みとしては極めてプロテスタンティズム的であったと解釈することも可能である。財の蓄積を原則として肯定し、事業を興すことも原則肯定するという、それ自体はきわめて世俗的営為に対して整合的な解釈を与えるようなキリスト教的言説を、19世紀末の日本において簡潔に改めて言明したことは、重要である。*7

(2) そして第二に、4つの分類のうち後ろの二項({思想,生涯})は、いわゆる世俗的事業の“成否”を取り除いている。特に「思想」に関しては、内村自身にとって(そしてキリスト教徒にとって)信仰の拠り所となるイエス・キリストとその弟子たち自身が、「思想」における達成としてカテゴライズされている。*8 さらに、後ろ二項のうち、「思想」は広い意味で記述され語られたものであるが、「生涯」は、必ずしも表現されたものでさえない。表現以前の、生活の段階において日々達成されるような種類のものとして位置づけられている。*9

(3) 第三に、内村鑑三の思想は、現代的な観点から照らして再読するに、当時から現代(21世紀前半)に至るまでの“生き方の思想”に関する言説に関して、実のところ極めて横断的なフローチャートを構築している。巷間において言われる“成功哲学”系のジャンル*10は内村の前半二項({蓄財,事業})と、整合的である。一方で、成否という条件を外したうえで論じられる“善い生き方”を志向する種類の言説は、後半の二項({思想,生涯})と整合的である。前二項と後二項は、現代的に見れば、議論の焦点が一見大いに異なるところに互いに位置しているように思われる。ところが、内村鑑三の議論の中では、ひとまず全て横並びなのである(或いは、内村がそのように横並びにするような論法を発明し、可能にしていた、とも言える)。

(4) そして内村は、これら四つの営みをいったん横並びにしてみせたうえで、最後の一項である「生涯」に思想上特別な地位を与え、他の三項とは明確に区別されるべきものだと論じた。さらには、「生涯」という立場から行為するのであれば、ほか3つの営みに関与できないまま生涯を終えても問題ない、という暫定結論を出しているところが、宗教者として力強い*11。これは、(若松英輔が番組でそうしたように)原文が特にわかりやすいので、そのまま引用する:

それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物 *12 がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。

以下の文も重要である。

それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。 *13 普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」 *14 を得たでありましょうと思います。

以上の四点において、私は内村鑑三の議論が現代においても十分有用であると考えるに至った。特に、私達の個々人が、これまでなしてきたことの成否を――それ自体として肯定するにせよ否定するにせよ――未来に向けて堅実に歩み直す立場に戻ってゆく上で、積極的に評価可能である、と考える。

注意点:「生涯」の論に対する留保事項

内村鑑三の「生涯」(彼の言い換えに従えば、“Life”)に関するこうした力強い位置づけの議論は、しかしながら、ある種の殉教的な行為の正当化を引き起こす文脈も備えている。実のところ、内村がそのまま論じたように、「生涯」でさえ、全くの害がないとは言い切れない。

だが、これについては、宗教的な「生涯」を送ること自体が有害であると言い立てることは難しいだろうとも思う。むしろ内村『後世への最大遺物』の議論を追跡すると想起されてくるような状況は、勇気や希望を持つ{生涯}を純粋に送ろうと決心した結果、その決心の力強さゆえに、(結果として)有害な要素を含む{財産,事業,思想}を結果として後世に遺すこととなるというような過程である。「生涯」それ自体が有害であるということは言えないが、「生涯」を経由した利害にまつわる各種の(社会に対する、多元的な)トレードオフ構造については、相変わらず言い立てることが可能だということが言える。

では、個人で行う「蓄財」「事業」「思想」と「生涯」とはどこまで切り離せるか。内村はそこまで厳密な議論は行っていない。「生涯」それ自体を評価する、というとはどういう手管を要するか、という議論が、ここに(あるべき補完として)要請されるべきだろう。*15

ところで、その「生涯」を参照する手管についての補完作業を、ほかでもない内村鑑三自身が曲がりなりにも実践したのが、若松英輔が番組において取り上げた『代表的日本人』であると、私は読みたい。*16つまり、「偉人の生涯を、{蓄財,事業,思想}それ自体の立派さを題材としつつも、主題としてはあくまで{生涯}それ自体の立派さを捉えようと試みる」ことこそ、『後世への最大遺物』と『代表的日本人』との二著のコンビネーションにおいて読まれ、確認されるべき事項なのではないか。

個々人の偉人伝の中には、複数の様式があり、その中には形而上学を引き受けるような種類の偉人伝、「生涯」論の言説やふるまいがある。そのように私は『後世への最大遺物』を読んだ。

*1:www.nhk.or.jp

*2:図書カード:後世への最大遺物 本記事の全文は青空文庫からの引用とする。ただし私自身はAmazon Kindleで読了した。こちらも無料。

*3:

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

これは、(大事典と銘打ちながらも)文庫本の体裁を取っていて手に取りやすく、また海外文学的な文脈から編纂されている。宗教的議論に関与しない人でも文化論として手にとって十分有益と言える書籍であり、推奨できる。具体的には、近現代の英米文学や映像作品で登場するキリスト教文化関係の不明な tips をおさらいするような用途に向いている。

*4:propaganda とは、現代英語では“誤った見解を広めること”といった意味が前景に出がちだが、英英辞典(Oxford Dictionary of English, ODE)には、ラテン語文脈の語源とは別に「1622年にローマ=カトリック教会により作られた“布教聖省”(Propaganda)」という意味があり、現代的な propaganda という種類の語釈は20世紀以降に広まったものである、という見解が記されている。

*5:20世紀の思想家であるところの井筒俊彦鈴木大拙は、これを“霊性”と呼んだが、若松英輔がそれをどこまで意識してNHKにおいて論じていたかは、彼の主著『霊性の哲学』など含め確認していないため、判断しかねる。

*6:社会学文献事典・縮刷版』p.036-037にある、厚東洋輔によるM.ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が手短な要約としてアクセスしやすいものになっている。ただし、同書の要約は、プロテスタンティズム的な実践の帰結として出てきた「禁欲の要請」が、20世紀初頭において、キリスト教と切り離されうるような形でも変質してきたというウェーバーの悲観的考察も同時に拾い上げられていることに注意されたい。

*7:キリスト教特にプロテスタンティズムの一部から見れば妥当で穏健な議論の一つであるにせよ、宗教思想全般は、つい「清貧を説き蓄財や事業を一段低いものとみるのだろう」とひとまとめに解されがちな傾向がある。ところが、内村式の区分は、俗なる達成と聖なる達成との間が、断絶したものではなく連続性がありうることを積極的に認める。仏教、イスラーム儒教などからこの種の連続的な視座を導出することも実のところ不可能ではないはずだが、近現代のキリスト教思想の一潮流が「聖俗の連続性」をうまく調停するような語りの伝統を、先行して築き上げて来たことは確かである。

*8:以下の内村の一文は、「思想」に関する註釈として書かれている:「われわれのよく知っているとおり、二千年ほど前にユダヤのごくつまらない漁夫や、あるいはまことに世の中に知られない人々が、『新約聖書』という僅かな書物を書いた。そうしてその小さい本がついに全世界を改めたということは、ここにいる人にはお話しするほどのことはない、みなご存じであります。」

*9:このようなかたちでの信仰生活の肯定を、内村鑑三とは異なる形で展開した国内の宗教哲学に、晩年の鈴木大拙『日本的霊性』、特にその中の「妙好人」に関する提題が見逃せない。『日本的霊性』の註釈としては、内田樹釈徹宗の共著による『日本霊性論』における釈徹宗(浄土真宗の本職僧侶でもある)が関わった部分の、鈴木大拙レビューが比較的親しみやすい。

日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)

日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)

日本霊性論 (NHK出版新書 442)

日本霊性論 (NHK出版新書 442)

*10:ここでは、ベタな言説であれ、外部的な言説であれ、強いて薦める意義のあるものがないため具体的リンクとして採り上げないけれども、要するにビジネス書や自己啓発書と呼ばれるカテゴリの書籍のことを指している。個人的見解を付記するならば、成否を問う状況にどの程度自己を立たしめるのかにより、その種の書籍の価値は大きく変わってくる。そして、成否を問う状況というものが、局面として一様でなく汎化しがたいものである以上、自己啓発書というものを総括的に批判することは不毛であり、さらに言えば自己啓発の背景にある形而上的な動きそれ自体に関する思弁の不足した議論は、思想に対する接し方としても不適切である。むしろ、徹底的にある領域の実用書であることを考えぬいた議論を構成しているものの方が、逆説的に極めて啓発書として読み得る局面が生じている。私たちは自己啓発について論じたい欲望が生じた時、むしろ優れた実用書が思想書としての強度をも同時に備えてしまう局面を析出し、それらを適切に批評するというアプローチにこそ関与すべきではないだろうか。

*11:「力強い」と形容したが、必ずしも肯定的な意味合いだけを念頭に置いているのではない。「生涯」が本当に益のみをもたらし害をもたらさない(無害なもの)と断言できるかについては、私は懐疑的である。そのことを表明するため、本記事の末尾に別項を立てた。

*12:引用者注:これは、言い換えるなら、他の3つ{財産,事業,思想}には、利益だけでなく害の要素も生じうることを否定していない、と読みうる。

*13:引用者注:ここで二宮金次郎が出ていることが、『代表的日本人』における二宮尊徳二宮金次郎論の章含む、偉人伝と宗教思想とを結ぶ予備的考察として読みうる箇所であると、若松英輔は(番組で)論じていた。

*14:引用者注:inspiration のこと。動詞形 inspire とは「霊感を与える」という意味もあるが、現代日本語の語感ではむしろ「気付き」や「ひらめき」といった語と近接している。宗教者の言説では、文字通り、神学的・教学的な意味での形而上の存在物との信仰に係るような知見を得るという含意もある。内村が同著の中で「水の辺りに植えたる樹」の喩えが可能であるのは、このような含意を仮定して論じているからであると言える。宗教的言説に不案内な方は、こうした仮説が(inspiration という語の選択含めて)内村の議論において強烈に駆動していることを仮定すると、読みやすいはずである。

*15:私達が他者に言及する、ということは、そのような{蓄財,事業,思想}の評価と、{生涯}の評価――内村が「後世へ最大遺物」とひとまずラベルを貼り付けたそのような対象――との間の絶えざる繋ぎ換えを、不可避に孕んでいる。不可避に孕んでいるそのような困難さを、どのように再帰的に引き受けていくかということも含めて、漸く「言説に対する佇まい」というものが、個人の手元で形成される(と自他にみなされうる)ものになってゆく。私は倫理的思想についての系統だった考えを、思想史的にであれ分析手法としてであれ特に持っていると断言できないけれども、一個人の思想的仮説として、個人の生涯に対する言及は、常に不可避に形而上学的である(と言って違和をもたれるのであれば、「思想的立場の呈示に等しくなることを避け得ない」、と言い直しても構わない)ということを考えている。

*16:このことは『100分de名著』2016年01月号の最終回においても若松が述べていたことではあるが、自分は『代表的日本人』の補完的著作として『後世への最大遺物』を読むというより、『後世への最大遺物』の補完的註釈として『代表的日本人』を読むという、番組最終回において「読みのひとつ」として呈示された味方を積極的に強調したような読みのアプローチを念頭においている。あるべき生涯論としての実体として出力されたのが『代表的日本人』と捉え、『代表的日本人』がどのような生涯論の枠組みを有しているのかを見ていくということ、そこに思考の力点を置くことに意義があると考えるのだ。