『君の名は。』に関する渡邉原稿への箇条書き的コメント再掲

渡邉大輔氏が2016年09月08日に『Real Sound』にて発表した、セカイ系ジャンルの文脈史に関する記述について、2016年09月10日未明にTwitter連投で @tricken 個人が言及したくだりを、切り出しました。

以下は連投ツリーにぶら下がっており、そのまま転記すると重複が増え読みづらくなってしまったので、後はプレーンテキストで切り出します(転記するにあたり、当時の表現ママではなく、一部語尾などの処理を変えています。文意には変化ありません):

(1) まず、この評は、08月時点であったどのweb評より文脈史として適切な話がされている。*1どうしても当然必要な(監督キャリアだけでなく、「論じられてきた文脈」も含めて、)必要な話が盛り込まれている。(リリース日は09月だが、本来なら当然補足されるべき話が出た。パンフに載っててもおかしくない。無料で読めることは著者の「この系統の様式美」に対する尊敬の表現である。


(2) 普段の著者の映画研究的なissueとも違い、様式美の議論を丁寧にしてくれている。読みやすく考えの元にしやすい。*2


(3) 「セカイ系が何だったのか」、という話と「新海誠作品がセカイ系においてどのようなone of them だったか」という話を同時にしてくれている。ゆえに、セカイ系という大箱の中に乱雑に放られてきた新海誠の、様式美の再-識別を行う手がかりになる。


(4) (3) に加えて、「並走した別のセカイ系にはどういうものがあったのか」という話をしている。深読みすれば、映画的な表現形式(或いは単に「形式」)以外の一部領域でどのような試みがあり、どういう共鳴関係にあったのか、という基礎的な話に、着眼が与えられている。


(5) 1-4の特徴がある【ゆえに】、この原稿は、ほぼブラックボックス化していた「セカイ系」ジャンルが、実は個々の結構な競合状態にあったことを……つまり「セカイ系」が複数のサブカテゴリであったかもしれない可能性について、はからずも明らかにしてしまっている。

(承前)その点で、「サブカテゴリ同士の相互・再分節が起きる」という点で、この原稿は“健全な”論争が起きなければおかしいくらいのクオリティの原稿である、と読んだ。


(6) 一方で、「形式」と「様式」の話を同時にブリッジしながら、「思い出されるべき“あの”ジャンルの話」というふうに、それ自体の争点の作り方としてはセカイ系をまるっと(従来通り、サブカテゴリを建てずに、ある種の紹介文として)扱っているために、文章の意図内容と効果に齟齬が起きている。したがって、著者のもくろみとしては、「みんな長らく熱心に関与してきた“あの一大ジャンル(とその周辺)”」について丁寧にプロの仕事を試みた、という風に見えつつ、効果としては、むしろ“そのジャンル”は、一塊だったのか?」という疑念を導く、金鉱を見出す作文になっていた可能性が、ある。


(7) (6) に関して、確かに以前なら「セカイ系にも色々あるね」で済ませられたものが、(著者自身も末尾で触れているように)鬼っ子が次の起源になりそうな、「セカイ系」再定義に関わる地殻変動を捉えている。だから、「えっ、今になって、かつての前提が、塗り替わってる!?」と気づかせてくれた。


(8) 1-7をまとめると、「言説空間の地殻変動をいち早く、文脈史に沿い、プロ仕事として」達成してしまったがために、「そういえば今まで通りの定義ではうまくいかない」という帰結を、示唆してしまっている(しかもそれは、伝統的様式美の説明役を果たした著者の意図を超えているかもしれない。


(9) しかし、そのようなわけで、「総体として好きだった新海誠」を、様式美のみに託して語るわけにもいかなくなり、本稿の1-8の価値とは別に、なぜその原稿から新たな争点(火種)が生まれる(あるいは生まれそう)なのか、感想の整理が進んでいない。もしかしたら、このWeb記事は、著者の論集単行本などに再掲された時に加わる注釈や解説によって、その論の歴史的位置づけ(や、他の映画論との関連づけ)について、当初の意図とは異なる解釈が付される可能性さえ、ありそうだ。


(10) 原稿の価値自体は1-9で述べた通りだが、後半の「ヘタレ」「リア充」「非モテ」といった語彙は、1-9の評価軸にとっては瑣末ながら、著者自身がかつての“新海誠セカイ系”の様式美をベタに再召喚してしまってもいる。原稿全体は、「もうそう呼ばなくていい」と言ってるように読める。個人的には、この1-9と10の食い違いに、自分は凄く、もったいなさを感じている。著者の本分は「形式」に関わる論でありつつ、ここでは最終的に、著者自身が深く関与してきた「様式美」理解の刷新が進んでいる部分と、進んでいない部分が混在している。しかし、解釈の地殻変動自体は、誰よりも怜悧に捕まえている。


以上、まじめに書きました。1-9が重要であって10は瑣末、というのは自分も指示しますが、「1-9が本質的だからこそ、10の語彙と不一致であるようにも思われる(もっと語彙選択レベルで、体系的に様式美の刷新が進むはずだ)」というのが、09/10段階での自分の整理です。


長い話なのでブログ等に書いた方がよかったかもしれませんが、応答に炎上が交じる(ことに拠って、著者自身があの原稿の価値を下方修正しそうな流れになりかけていた)ので、敢えてTwitterで連投しました。


ちなみに自分の「セカイ系サブジャンルごとの再定義が進みそう」という感触については、09/09の昼に書きました。ただ、それ自体は派生的な話で、原稿それ自体の価値を毀損する内容ではないです。(10に関して、「ん?」と疑問を表明した内容は含みますが、それで1-9を捉えそこねたくはない。


自分も「これを作品史としてみる際には、当然『祭囃し編』と『賽殺し』編の兼ね合わせ、の後(のいろいろ)の、映像表現畑側からの、様式美の、洗練」という話はしたいので、我が意を得たり、だったんですが、その後の再定義や整理には、茫漠とした荒野が広がってることにも気付かされました。

なお、『君の名は。』本体の感想は、(この渡邉さんの原稿とは別に、)ツイキャスで30分番組として録音しています。主に作品の構造論を語っています。

twitcasting.tv

*1:セカイ系」と呼ばれてきた対応物に関する啓蒙書としては、前島賢セカイ系とは何か』、ゲーム的な状況を描写したノベルゲームの表現およびその様式美に関わる議論は、東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』が先行する議論を構築してきた。[asin:4061389688:detail]

*2:ユリイカの『君の名は。』特集に、同著者の原稿が掲載されている。ただし『ユリイカ』での議論は、セカイ系様式美の話ではなく、映像の表現形式に関する議論である。

なお、作品解釈においてそもそも形式/様式の区分がある、という個人的な観点構築にあたっては、佐藤亜紀『小説のストラテジー』等の美術論を参照して行っている。[asin:4480429794:detail]