2022-01-19日記

楽しい思い出も、忘れることが増えてきたように感じる。書き留めておける気力があるうちは、書いておいた方が良い。

今週はしんどさが襲ってくることが多く、銭湯にすでに二度行っている。今日は初訪問の場所に行った(京都市内には銭湯が多い)。中に飲み屋があるタイプでありつつ、設備は高品質の銭湯というくらいのつくりだ。少年たちがこのコロナ禍で喋りまくっており、しかし自分自身も感染者数1000人越えの報道がある中で銭湯なんかにきているのだからもはやどうでも良いのだが、多少は気になっていた。少年らが傍若無人なりに友達(或いはきょうだい?)のさらさらの髪を小さな櫛で丁寧にとかす風景は、なかなか見られないものをみたようにおもう。

中の飲み屋スペースは古いVHSの名作で満ちており、テレビでは『相棒』がやっていた。いつのまに『相棒』の相棒は泣く子も黙る反町 The Poison 隆史になっていた。杉下右京と並ぶと背の高さに目がゆく。話は埋蔵金YouTuberの一人が実は失踪事件兼殺人事件の真相を追うシニアの義人である、という作りだった。旅館を拠点にのうのうとくつろぎながら何度もYouTuber活動をする杉下右京という笑える構成が絵のつくりとしても十分面白かったが、死という結末を迎えつつたまたま杉下に問題追求の遺志を継いで貰えたシニアの義人のありようが、おかしみを多分に含みながらも尊く、末期までブレなかったその義心に思いを馳せた。合間に食べた砂肝の焼きものは、その辺の焼肉屋でも食べられない出来で驚かされた。

今年の目標として掲げているFine 1983の翻訳は40分、0.5ページほど。休養に費やしてばかりでは進まない。本来の目標は週6ページペースだったのだが、3週目の中盤に至り、未だ7ページ近くまでしか到達していない。ペースが週6を超えるまでは、昨年までやり込んでいたFF14を封印してでも進める、と内々に決めてやっているはずなのだが、いつまで経ってもFF14に戻れる気配がない。もう暫くは目標を抂〔ま〕げずにやってゆきたいところだけれども。

音楽ファンの動向は宇多田ヒカルの新アルバムの吟味に向いているようだ。まだ聴けていない。最近は電車内でもノイズキャンセリングの効果を得ながら単に瞑目していることも増えた。

オープンレターを巡る非難の応酬が悪夢のような風景を生み出しており、どうにかならないものかと願っている。オープンレターの座組みは徹底的に見直すべきと思うが、そのマンパワーを直近で支払うのが北村紗衣さん一人であるべきはずもない。彼女をいたずらに攻撃することが許されない行為であることは変わらず多くの人に共有されうる見解であると思われる。その上で、組織運営を適切に行える資源を改めて立て直す議論をしていってほしいのだが。

友人に「京都らしい写真を送ってくれ」と言われていたはずなのに、何もできていない。週末に机に座る余裕がない限りは無理だろう。

『大ベルセルク展』のためにひらかたパークへ行きたい気持ちと、どうでもいいかなという気持ちがここひと月ほどずっとせめぎ合っている。

ミステリと言う勿れの2話をTVerで観た。菅田将暉の演技を通じて語られる“ポリコレ”は、もはや揶揄されるべきものではなく、地上波の月九をジャックして語られる生-政治だろう。劇伴の演出論が整の言葉を載せるには不整合すぎるところがあるけれども、話自体の面白さを vehicle として『ミステリと言う勿れ』の比較的まっとうな言葉たちが伝播する2022年を祝福したい。

友人から『The Boys』を見てくださいと提案があった。そのうち見る予定。