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著者の意図に引きこまれずに個々の読書を完遂するやりかた

本を読む上では、著者の抱える意図*1にあまり踏み込みすぎず、「心にダメージを受けないようにする」ことが、とても大事です。

しかしながら、読書家の方々がこの点について方法論的に触れている記事を探してみたものの、意外とみつからなかったため、一度自分で手短にまとめてみることにしました。

▼その読書の“目的”を敢えて定めてしまう決意

優れた本、魅力的な本に対して心奪われるという経験は、確かに甘美であり、人生において貴重なものかもしれません。ですが、一方で読書には多くの落とし穴があり、煩わしいものに悩まされ始める入り口である場合もあることは、意外にも、見落とされやすいものです。


文芸批評家の福田和也が『ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法』という本を書いています。一瞬眺めると「自慢か!」と思ってしまうようなタイトルなのですが、実は「最初からこの本を読む目的を定めて、後はいったん措くよ!」という決意が大事、というようなことが書いてあって、とても有用な本になっています。

〔本を読むときに大切な「こころ構え」とは、〕まず何よりも「目的」をはっきりさせることです。
 つまり、自分は、一体何のためにこの本を読むのか、という目的意識をはっきりもたなければなりません。
 ここに一冊の書物があり、その本をあなたが手にする。
 本とあなたが対面をする、という体験自体はどんな本についても同じですが、しかし実際の読み方、対し方というのは、千差万別です。
 たとえば、あなたがスタンダールの『赤と黒』という小説を読むとする。
『赤と黒』という本を読むということは同じでも、目的意識はいくつも考えることができます。
〔中略〕
 無論、このように多面的な読み方ができるのは、『赤と黒』が、古典的な傑作だからですが、しかし、どんな本にも、いくつかの側面があります。かなり殺伐とした実用書についてでさえ、読む目的というのは、いくつか考えられるのです。
 まず、読む前にそのポイント、つまり自分は何のためにこの本を読むのか、ということを明確にしておかなければなりません。
(福田 2001: 28-9)

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法

なぜこの決意が大事かというと、一介の読書家には個々の“自分自身の”〈イシュー〉(=「個々人の呈示する関心ごとや、個人的問い立ての核心」、というような意味です)が――たとえぼんやりとしたかたちでも――存する、と仮定できるためです*2。そして、それを無理に曲げてまで、その本の著者の目的に寄りそう必要はないのです。*3

もちろん、古典本や優れた本に“寄り添う”と言えるほどの精読には、適当に読み流すことでは得られない何かがあるのも事実です。また実際、そのような読みをやってみたもの、それによって得た果実等を自分は確かに持っています。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」、の諺にもある通りです。今回の記事は、そうした求道者的な側面を拒否するものでは、決してありません。

しかし、一方で、あらゆる本に関して、「それが果たしてその人の人生上の〈イシュー〉に資するのか」に疑念を挟ませず、とにかく読書をある種の没入対象として、“寄り添う”だけのものとして強硬に薦めるのは、この世にはびこるさまざまな“意図”や“目的”の押し付けを行う他者がはびこっている実態をあまりに等閑視し、他者の人生に対して、あまりにも妨害的な振る舞いをしているものだと、私は危惧します。*4

また、この世には、“魔導書”としか形容しようのない魅惑的な〈イシュー〉を、読者の意志を踏み越えて押し付けてくるような、様々なことば・イメージを封じ込めた本も、沢山あります。およそあらゆる表現が、“正しさ”や“適切さ”といったものの確認順序をやすやすと吹き飛ばして、真なるもの、善なるもの、美なるものの考えを新たに上書きしてしまうようなパワー、暴威を備えている――そうした先読みを、あらかじめしておくに越したことはありません。この世にはどんな形であなたの〈イシュー〉を書き換えようと画策しているひとがいるか、究極的には予測不能なわけですから。*5

その上で、論文を書いたり、古典・名著の註解を書くプロの書き手が、“エクストリーム読書” を基準とするのは、一つのワザです。ただ、全員がそれをすると普通に死人(社会的なそれも含む)が出てしまいます。ですから、やはり〈イシュー〉を立てる方を、安全な手段としてまず薦めるわけです(少なくとも、私は)。

▼読書家としての自分の“目的”以外を無視することは、必ずしも知的怠惰ではない

さて、〈イシュー〉を立てると、それ以外の記述/言説/現象/行為といったものは、あるとしても――とりあえず無視することができます。読書において、“当面は今の解明にとって要らないであろう”とみなしうる記述を、とりあえず脇に追いやることができる、というわけです。

そして――これが重要なことなのですが――、それはべつに知的怠惰、ではないのです。なぜなら、後で〈イシュー〉を切り替えれば、おなじ本を、まったく別の観点から照らし出すことも(原理的には)できるはずだからです。

もちろん、意図的にその観点を切り替えることは、とても難しいでしょう(あるものの見方を切り替えがたいことを、私達はしばしば「偏見」と呼びます)。その上で、まずはこれまで自分の採ってきた立場や見方を、ほんの少しだけズラしてみる、という作法が、〈イシュー〉の複数性を捉える上で、とても重要になってきます*6

こうした観点まで踏み込もうとした際には、苅谷剛彦『知的複眼思考法』や、『本を読む本』などにおいて論じられてきた、各種の批判的読書術(精読術)が、参考になるでしょう。

*7
本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

詳細は上記の書籍群に譲るとしても、ここにおいて大事なのは、色んな〈イシュー〉のうち、今どういう〈イシュー〉で読んでいるのかを把握し、読書に於いてラクをすることです。さらに言うならば、「ラクをすることを気に病まずに済む条件を整える」ことです*8

たとえば、「ある政治的言説を含むが、情報的にもある種の重要性を持っているような本を、クリエイタが“創作系のネタ本”として参照するために、読んでいるとしましょう。そのように、自分の側で必要十分なだけの〈イシュー〉を立てておけば、残りの政治的なあれこれは無視してしまっても、何の気後れを感じなくても、何一つ咎はないのです。

「この本の政治とか無視無視、とにかく事実関係だけ洗うぞ!」というのは、なによりも立派な〈イシュー〉の建て方のひとつです。それは“一周目”をまず読み切るまで、自信を持って保持してよいのです。そして、後で別の〈イシュー〉をみつけてから、“二周目”の読書を始めることにしてもよいわけです。

▼読書行為における〈イシュー〉同士の競合

まとめましょう。私が〈イシュー〉を立てる読書を薦めるのは、読書という営み(読書行為)のうちに、既にして以下の現象が観察されるためです:

  • (1)個々の書物は、本来複数の、著者(達)なりの独自の目的、(「著者の〈イシュー〉」)を抱えている。
  • (2)しかし読者の方でも、読者なりの、ある著書を読む前からの「読者の〈イシュー〉」がある(少なくとも、潜在的には)。

そして、(1)-(2) が必ず完全一致するようなことなど、基本ありえません。したがって、必ず著者と読者との間では〈イシュー〉の比較対照が必要になってくるわけです。そしてその時、読者である自分の側の〈イシュー〉に役立たない、著者自身の〈イシュー〉に、すぐさま関与する必要はないわけです。

もしかしたら、読んで数カ月後、数年後、あるいは数十年後に、「もしかして、あの著者の〈イシュー〉は、自分の長らくの〈イシュー〉にとっても、重要なことだったかもな」と思えることもあるかもしれません。しかし、それは決して急ぐ必要もありませんし、著者の〈イシュー〉を全面的に受け入れられなければその本を“真に”読めない、などということもありません(そもそも本というものを“真に”読めたかどうかということなど、誰にも検証することはできません)。

本というものを断片的にしか読めないことを最初から諦念した上で、自分なりの〈イシュー〉の在処を、読む中のモヤモヤを通じて少しでも輪郭づけしていくというのが、誰にでもできる、比較的安全な読書というものだと、私は考えます。*9

それでも、著者の〈イシュー〉に付き合いきれなくなったら、どうすればいいのでしょう?

自分で購った本であれば、遠慮無く放り出してしまいましょう*10。図書館の本であれば、パタンと閉じて、傷ませずに図書館に返しましょう。この世に無尽蔵にある本の中で、自分にとって大事な〈イシュー〉があり、かつそれが本当にある程度以上大事なものであれば、また別の本が、今自分が欲しい知識の良い入り口になるでしょう。良い本を探すのは必ずしも簡単なことではありませんが、今読んでいる本をいつでも閉じることはできる。このことは、心の片隅に留めておいたほうが気楽です。

*1:他、目的、野心、野望、欲望、言説戦略、プロパガンダ、といった言い方がありますが、とりあえず「意図」ないし「目的」と呼びます。その上で、そうしたものを明示的に措定した場合の、テキスト上の目的を「(著者の)〈イシュー〉」と今回は呼んでいます。

*2:この段落における論は、福田和也が明示した意見ではありません。しかし、福田が大量に文を生産する背景には、彼なりの出力(書くべきもの)があったことは、序文に記されています。それを〈イシュー〉と括ることは間違った読みではないと判断しました。

*3:こうした意味での〈イシュー〉については、色々な解説書がありますが、たとえば『イシューからはじめよ』という本が、わかりやすいかもしれません。

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

*4:その本の何が優れているのか、その本によって何がどの程度明らかになるのか、どのような“ねらい”を持っているものだと論じられてきたのか、どのあたりの“目的”や“意図”の達成が巧くいっていないのか、巧く行きすぎているのか……といった情報を抜きにして、なにがしかの本を薦めるのは、その著者の“意図”や“目的”に強く加担してしまうことと機能的に変わらなくなります。たとえば、日本語作文論として本多勝一の『日本語の作文技術』という本があります。私はこの本を、日本語の統語的構造を著作実践の立場から詳らかにしたものであることについては賞賛を惜しみませんが、一方で彼が新聞記者・政治系ノンフィクションライターであることもあるのでしょう、例文の様々な左翼思想的片鱗がたびたび挿入されることについては、特に同意するものではありません。なぜ同意しないかと言うと、同本において展開される「日本語という思想」に対する徹底的な問い直しの作業がある(これを最近私は「ラディカルである」「ラディカリズムを備える」などと呼びます)のに対して、彼が他の著作で多く書き残している主張とくらべても、明らかにそこで左翼思想的な問い直しの作業が徹底的に展開されているわけではないまま“ポン”と置かれているだけのように見えるためです(「ラディカルでない」というわけです)。そして、ラディカルでないまま置かれた主張というのは、事情を知らない読者が読むとき、常に潜在的に「とりあえずこのように信じて欲しい」という主張、すなわち“プロパガンダ”として呈示されてしまいます。本多本が(1) 日本語というジャンルにおいて徹底していることと、(2) 同著書内に収められた左翼思想的言説に対してプロパガンダを行ってしまっていること、この(1)(2)双方の評価は、それぞれ矛盾しないのです。その上で、読者としての私は前者の徹底性を評価し、後者の不徹底性を“差し引いて”読むことを決断するわけです。このようにして、著者の“意図”や“目的”,時に政治的“プロパガンダ”と付き合わない/与〔クミ〕しない/コミットメントを行わない、というような読みは可能となるわけです。

日本語の作文技術 (朝日文庫)

日本語の作文技術 (朝日文庫)

*5:前の脚注で、“プロパガンダ”を含む著作の読み方について例示しました。しかし、実はここに示した“魔導書”と“プロパガンダ(的な著作)”とは、似て非なるものです。“プロパガンダ”的な著作が「その著作における〈立場〉の表明が、読者に或る〈立場〉の変更を{明に/暗に}要求してくるような示唆を備えるもの」であると定義可能だとすれば、それに対して“魔導書”は、「いっけん知的な構造を備えているように視えながら、人文学,社会科学,自然科学等,既存の“学”の伝統のどこへも適切に促しはしないが、しかしそれ自体でひたすらに読み込ませる魅力を備えているもの」です。さらにこれに、“禁書”(=その本それ自体に明示されている記述だけでは読み解けず、ある特殊な“読み”の姿勢を外挿しなければ返ってある正統的な知識の獲得を阻むような種類の、読み方の難易度が高い本)という分類も提案されており( 禁書にすべき本とその読み方 - 殺シ屋鬼司令 )、非常に気をつけて読み込まなければ早合点して失敗するような書物というのもあります。これら“プロパガンダ本” “魔導書” “禁書” という分類はまだ相互排他的に整理された定義とはとても言えませんが、本記事において「著者の〈イシュー〉」として括り、適切な距離を置いて接しようと考えようと提案するまでには、こうした“プロパガンダ本” “魔導書” “禁書” それぞれのもたらす隘路というものに極めて慎重な態度を取らざるを得なくなるような個人的経緯がありました。

*6:この試みをしてもなお、自分以外の〈イシュー〉を見下し始めた時にはじめて「知的怠惰」と批難されうるものが出てくるかもしれません。しかし、動かす前から自分がいかに知的に怠惰であるかを過剰に責めても、ページを繰る手が速まるわけではありません。読者としての自分を省察しつづけるのは大事なことですが、読者としての自分を責めすぎるあまり手が止まるのも、本と接し続けるにあたっては避けなければならないことの一つです。

*7:初出の単行本は

知的複眼思考法

知的複眼思考法

*8:この件については、くるぶし(『読書猿』管理人)による2013年09月20日の記事が参考になります。本を読んで分からないのは何故か?読書の4つのつまずきと克服したとき見えるもの 読書猿Classic: between / beyond readers この記事では、{1.用語・語句の意味・事柄を知らない,2.叙述の裏・言外の意味が分からない,3.不整合・破綻が生じているから分からない,4.テキストと自分のコードシステムとが整合しない}という四段階で、ある読解対象に対する躓きの要因を分析する手順が示されています。ただし、くるぶしによるこの記事は、「読み手の意味体系や価値体系」についての批判を非常に難易度の高いものとして位置づけ、読み手にかなり高度な労力をハッキリと要求していることには注意してください。本記事では、「この四段階のすべてを即座に行うのは、その種の知的生産が切実に必要な職業人だけだ」という立場に(ひとまず)立ちます。「読み手の意味関係や価値体系」について網羅的批判をする仕事が読み手に要求されていない場合、ひとまずその本を脇に置いて別の読書を開始することを、本記事ではむしろ推奨しています。そしてこの立場は、『読書猿』エントリ群において示された立場とは、必ずしも矛盾しないとも考えています。

*9:もちろん、“真に”安全な読書というものも、おそらくこの世にはありません。イデオロギーに惑わされない読書、安易に動員をされない読書というものの基礎づけはこのあたりにあるだろう、ということを、スケッチしたものとお考え下さい。

*10:かつて友人が、「壁本」と称して、自分の買った本がくだらないものだった時、その本を“本当に”壁に放り投げていました。本を愛する人にはこうした行為はとんでもないことであるように思われる向きもあるでしょう。しかし、著者のイシューと対決する、という場合のある過激な例としては、十分ありうる立場だと思います。心のなかで“壁本”する準備があることくらいは、容認されるべきでしょう。