母語と外語とを並行して考える作法 (1):カテゴリ論

▼はじめに

 この記事は、日本語と外国語を両方同時に並行して考えることで、外国語学習(自分の場合、「英語」)に関する回り道を防ぐ、というコンセプトで書かれるシリーズです。不定期にシリーズ記事が追加されてゆきます。


▼なんのためにことばを学ぶのか:各種の言及

 国民=国家としての21世紀日本では、日本語(日語)のことを「国語」と呼び、小学校教育から段階を追って学習をすすめてゆきます。高校教育および大学受験までは、そうした「国語」の教育カリキュラムは、一見、単線的・発展的に構築されているようにも見えます。
 しかし実のところは、「(批判的な)論理の組み立て」と、小説・エッセイの読解を通じての「道徳的素養(教養?)」の獲得とがひとつの「国語科」教育の中では混淆しており、またその2つが混在していることが今後の「国語」教育にとっては必ずしも良いことではないのではないかという意見もまた、国語教育の専門家をはじめ根強く見られる議論です*1

 一方で、そうした言語教育のうち「論理性」に関する知性の涵養は、「国語」教育ではなく、むしろ「外国語」教育の中で果たされれうる側面が強いのではないか、という、外国語教師からの意見もありました。母語の会話の自明性から離れ、外国語をいちから組み立て直す作業を通じて、その比較言語学的実践の中で“思考法の衝突”を起こさせることが、ことばの学習にとって重要だという主張があるわけです。

 語学は奇妙な「学問」である。どんな学問でも、第一線の研究者は自分の研究分野について最も該博な知識を持ち、対象の法則性を反映した自分の研究方法にも意識的な自覚があるはずである。ところが語学の場合、該博な知識を持っている点では第一線の研究者に相当する母国語使用者は、その言語によって生活していても、言語の法則性についての自覚はあまりない。一方、外国人研究者は法則についての自覚はあっても、それを実際に使う点では母国語使用者に及び得ぬのが普通である。さらに外国語の学習は単にその言語を学ぶことに終始するものではない。He is in dangerous. と He is in danger. という二つの英文の内容を「彼は危険だ」という同一の表現であらわしている日本人は、「彼は危険だ」の二つの内容を意識的に分析する訓練をしないと英語表現についてゆけないし、なぜ、そこで日本人がつまずくかは米国人にはわからない。逆に日本語で発達している敬語表現に慣れた人は、その感覚を鈍麻させることが英語の勉強なのである。母国語の学習は、白紙の状態が特定の色に染められることであるが、外国語の学習はこれとはちがって常に二つの思考法の衝突であり、そこで有効な学習法を打ち出すためには、二つの言葉に等しく通じていることが必要なのである。
(伊藤 1997: 4)*2

 また、伊藤のように「(英語など)外国語の系統的学習を通じて日本語を対象化させる」アプローチとは真逆に、「日本語を日本語自体として、しかし、まるで外国語であるかのように語り直す」ことを通じて、日本語にひそんでいる「言語技術」をもう一度構築し直そうという、そうしたアプローチも提案されています。

 日本語も外国語もどちらも言語です。ところが日本ではどういうわけか、国語である日本語と、義務教育の過程で学ぶ英語がまったく別のものとして扱われているようです。例えば、主語や目的語という言葉をはっきりと意識させられたのは英語の授業でのことでしたし。国語の授業でそれが強調されることは滅多にありません。〔中略〕本来、言葉を本当の意味で使いこなすためには技術が必要です。欧米ではこの技術を言語技術と呼び、教育課程の中で指導します。言語技術は、国語ばかりでなく、外国語の授業にも応用されます。国語も外国語もどちらも言語であり、言語である以上、その運用技術は普遍だと考えられているからです。日本人が外国語を学ぶときも日本語でまず言語技術を学ぶことが、外国語を修得するための近道になります。なぜなら、母語である日本語でできないことは、外国語でも決してできるようにはならないからです。外国語の達人になるためには、まずは日本語の達人になる必要があるのです。
(三森2003: 9-10)*3

 さらには、ネイティヴな英語を学習する際には、英語的な考え方それ自体に寄りそい、ネイティヴのようにことばを“置いてゆく”ことが大事だ、と主張する、大西泰斗&ポール・マクベイの立場も、近年かなりの支持を得つつあります。

 英語を使うということ。それは英語のキモチで文に接するということです。英語は外国語。当然日本語と異なる感覚で文は作られているのです。
 英語をネイティブと同じように使いこなしたい――そうしたみなさんにまず乗り越えていただきたいハードルは、日本語と英語の、主語の捉え方の違い。

(1) 純子は英語が好きです。(2) Junko likes English.
日本語は「て・に・を・は」など、助詞を貼り付けて文の中での働きを示すことば。(1)の「純子」にも主語を示す「は」が貼り付いていますね。「純子は、英語が…」とベタベタ張り付けていく。それが日本語の持っているフィールです。でも英語は違います。
 英語は「配置のことば」。位置によって機能が示されることばです。主語は「術語の前に置く」。ただそれだけで主語であることが示されます。主語と術語をポンポンと順序よく置いていく――それが英語で文を作る感触なのです。「貼り付ける」感覚から「置いていく」感覚へ。それが英語文へのファーストステップなのです。
 さあ、Junko と likes English をポンポン並べながら何度も読んでください。主語に「は」を付けない単純さに慣れてください。それが英語。配置のことば英語の感触なのですよ。
(大西・マクベイ: 51-2)*4

最後に、日英の比較でなく、現代と近代以前とを比較するアプローチも紹介しておきましょう。たとえば言語学者大野晋が、古典文法を学ぶ有効性について、以下のように述べています。

 日本語全体を古代から現代まで見渡してみると、だいたい二つに分けられます。一つは、我々が現在日常使っている言葉、新聞・小説・報告・演説などで使っている現代語です。これはだいたい明治時代以降に作られた言葉ですが、文法的に考えてみると、実は江戸時代以降の言葉は現代の文法に近い。ですから、江戸時代のものを読むにしても、一つ一つの単語の意味さえわかれば、比較的たやすく読めるということになります。

 ところが、それ以前の『源氏物語』や『枕草子』などは、現代語とはずいぶん違っています。ことに違っているのが助詞と助動詞で、これを習わないとそれらの作品は理解できません。
 私たちは、単に生きていくというだけならば古文を習う必要はないかもしれません。商売だけしていこうと思う人にとっては古文は必要ないでしょう。ところが、人間という存在は単に、現代の言葉を使って仕事をしてお金もうけをして終わるだけで済むのでしょうか。

 例えば、外国語ができるとか、外国にいったことがあるとか、外国のことを知っているという人は、現在の日本の中に暮らしていても、外国ではものの考え方が違っていた、それに比べて日本はどうだ、日本はこうしなければいけないのではないかというふうに、自分が住んでいる世界だけでなく、自分がすぐさま利害がないような世界についてもものを知っている。そういうことは、自分の世界をよより深く知ったり、それを吟味したりするときに、大きな役目を果たすものです。外国に行ったことがない人は、世界のいろいろなことを知っている人に比べれば、ものの見方が狭くて判断が浅い、あるいは間違うということが起こりやすいわけです。

 それと同じように、同じ日本の土地に生まれ生きた昔の人たちが、何を感じ、どういうことを喜び、悲しみ、どういうふうなものの見方をしてきたか、ということを知っているということは、現在の生活を豊かにします。それから、昔のことは多くの点で現在と違うことは確かです。しかし、実は、昔と今とはつながっており、今と昔は本質的には同じだということが、根源的な深いところで生じているのです。そして現代の生活をもっと深く見つめたり、もっと広く理解するためにも、自分たちの先祖の世界を知ることが必要になります。

〔中略〕我々の言葉は連綿として続いてきています。だから、昔はこういう言葉を使っていた、こういうことを美しいと思っていた、こういうおもしろい言い方をしていた、こういうふうに物事を深くみていた人がいた、そういうことを学ぶことによって、同じく豊かで広い人間になろう、そういうことのために、高等学校の段階で古文を教えよう、そして古文を理解するためにはまず文法を習わないといけないということになるわけです。

(大野 1998: 10-1)*5

これらの言葉を総合すると、以下のようになります:

  • 日本の(受験対策等によって評価される)国語教育(≠国語の文法理論研究)は、必ずしも母語による明晰な「論理」を中心に扱ってこず、むしろ「論理」と「倫理」とを混淆させた教育カリキュラムを作ってきてしまった傾向が少なからず見うけられること。
  • 外国語教育は、母語に対して別の思考法を立てることによる母語の批評的再考を図る“装置”としても期待されてきたこと。
  • 日本語にも外国語にも、それぞれの言語の内部で組み立て可能な「言語技術」とでも言うべきものがあり、その水準で日本語と外国語を比較していった方が、より明快に二ヶ国語の論理的・構造的な関係が理解できること。
  • 日本語の「(一)文」は(自立語に)付属語が貼り付くことで作られる体系であるのに対し、英語の「(一)文」は単語が「置かれる」ことで作られるものであり、その二言語の間には文法の水準から根本的な考え方の違いがよこたわっていること。
  • 日本語と外国語の思想の差異(地理文化的・空間的な違いにもとづく差異)に負けず劣らず、「現代日本語」と「近代以前の古語(古代/中世/近世の日本語)」との間にもまた、時代による思想的差異や、その差異を学ぶべき意義というものは存在するだろうこと。

 「ことばを学ぶ」ということの意義をもう一度根本的なところから再検討するにあたっては、こうした現状認識や、言語研究家の立場からの批判的視座から再出発することが、効率的だと考えます。

▼“学習のための”言語の分類

 帝国主義欧州の時代から始まる古典的比較言語学研究や*6ノーム・チョムスキー以降の生成言語学プログラムなどを経て*7、言語の研究にはさまざまな部門が生まれました。大まかには、{音声学,音韻論,形態論,統語論,意味論,語用論}といったサブカテゴリがあります*8。確かにそれらは、世界中の言語を一般的な視座のもとで扱うにはとても便利です。
 ですが、言語学の専門的な議論を(たとえ入門・概説書であっても)“直接”役に立てるには、やや複雑な姿勢づくりを要するところがあります。言語学・各国語言語研究の成果と矛盾しない・背反しない限りで、“学習のための”方便的な整理を行う方が効率的です。
 その上で、以下の分類を学習上の方便として機能させると、効率が良いと私は考えます。

  • 1. 基礎訓練(概念/統語)
    • 1a. 概念論基礎【語彙(概念)】
    • 1b. 統語論基礎【文法】
  • 2. 発展訓練(基礎の深化/拡張)
    • 2a. 通時的深化【言語=文化史】{文法史,語彙史(語源論),文化史}
    • 2b. 共時的拡張【言説分析】{類語論,結合語論,人文地理学,比較言語学
  • 3. 発語実践【入出力】{Reading/Writing, Listening/Speaking}(※音声含む)

以下、これらについて簡単に註釈していきます。

▼1. 基礎訓練(概念/統語)

 ここで言う“基礎”とは、現代語のことを指しています。たとえば日語コミュニケーションにおいて、非-ネイティヴの方に対して時代劇の言い回しを使っても、必ずしも伝わらない可能性があります。

 同様に、イギリス英語における近世英語にあたる『キング・ジェームズ欽定訳聖書KGV)』*9のようなものは、現在流通している『共同訳聖書』の英語版とは明らかに採用される語彙や文法の古めかしい、とされています。そういうものにいきなり取り組むのでははなく、(少なくとも20世紀後半から21世紀前半までの)基本的な言い回しのみで各種の言語コミュニケーションを取るとはどういうことか、を考えた時にも必要な言語技法のみを、この段階で考えます。

 さて、この基礎についてですが、現代語に限っても、「概念論」と「統語論」の2つに分けることができると考えています。
 

▼1a. 概念論基礎【語彙】

 概念論では、概念(concept)、つまり個々の語や熟語、フレーズが持っている“ことばの意味”を扱います。

 たとえば日本語は{ひらがな,カタカナ,漢字}によって構成される複雑な文字体系を持っています。特に漢字は、漢語(現代の中国普通語・広東語・上海語台湾語等に分散伝播した)から文字だけを拝借しながら独自に意味のシステムを組み込んでいきました。

 では英語にはそうしたものがなく単純なアルファベットの組み合わせだけなのかといえば、そうとも言えません。たとえば「不幸にも」と訳せるような英語の副詞である "unfortunately" という単語は、実は “un-fortune-ate-ly” と分割できます(これは言語学的には〈形態論〉に属する分析です)。そしてこの単語は、

  • [fortune](富,幸運)という基盤的な意味を持つ文字列(base)に対して、
    • [un-] :打ち消しの接頭辞(prefix),
    • [-ate]:(動詞を作る接尾辞(suffix)),
    • [-ly] (副詞を作る接尾辞(suffix))

というような構造を作ります。こうした作りは、日本語における漢字の成り立ち(偏,旁など)と完全な対応を持っているわけではありません*10。しかし、印欧語圏にも、一単語をさらに分析してゆくことが可能であるということ、さらにその分析にあたって{語幹,接頭辞,接頭辞}のような分節区分があることは、改めて外国語学習者のあいだで共有しておくことは有用でしょう。丸暗記をしなくても、形態素に着目すればその語の文法的な働きや意味の調整のされ方がハッキリと読み取れるようになるからです。

 また、ある単語Xがあるとして、(a)その「辞書的定義」と(b)「実際にそれが指す意味範囲」とをしっかり区分しておく必要があります。
(a) は、例えばウィズダム英和辞典から*11apple” を引いてみます。

1 【可算】リンゴ; リンゴの木(apple tree)
2 【可算】リンゴに似た果実; リンゴに形が似たもの
3 〖A-〗アップル 〘米国のパソコンメーカー〙

これが、ベタな意味での「apple」の「辞書的定義」ですね。では、以下の一文における apple の意味とは、何でしょうか。

「彼は、iPod classicは好きだったようだが、現在のAppleの製品は購入していない。」

 この場合の apple は、上記の“辞書的定義”のうち、(3) 、つまりApple社のことを指します。そして、バラ科植物の実としての apple の意味を指していると読むことは、文脈的には不可能です。

 このように、

  • (a) のような、「その語が可能性として示しうる意味範囲の定義」と、
  • (b) のような、「その語が言語実践において示してしまった実際の意味範囲の絞込み」

 この2つのことばの意味にまつわる2つアプローチを区別しておくというのは、とても重要です*12

 言われてみればものすごくアタリマエなことかもしれませんし、逆に「なぜそんなことをわざわざ言わなければならないのかさっぱりわからん」という感想もあるかもしれません。しかしいずれにせよ、この2つを分けておくことが、ことばを通じて、抽象的なものも含む“概念”というものを実際に取り扱っていく際には、とても大事な基礎訓練になります。基礎訓練の段階ではほとんど意味が無い議論のように思われるかもしれませんが、発展的学習を進めるうちに、この訓練をどれだけしておいたかが大きな実力差ともなってきます。このこと(本記事の筆者がこのことを強調していたこと)は、ぜひ覚えておいて下さい。

▼1b. 統語論基礎【文法】

 文法と言うと、思わず反射的に「うわーっ」と頭を抱える方も多いでしょう。文法は確かに難しい領域です。しかし、細やかな文法細目を詰めていく、というような種類の文法ではなく、「ひとつの文(one sentence)」を構成する個々の“文法的まとまり” を強く意識する、という一点においてのみ、まず文法は重要です。これは日本語でも、英語でもそうです(こうした働きに着目するときには言語学で〈統語〉(syntax)という言葉を使います。また、これを分析するための手法・考え方を〈統語論〉と呼びます)

 日本語では、「自立語」と「付属語」という対比が必要です。たとえば、以下の珍文をご覧ください。

「おれさま、おまえ、まるかじり。」

 なんだかファンタジー映画の野卑な怪物のような言葉を出してしまいましたが、これは流暢な日語の「一文」でないことは明らかです。では、何が加わるといいのでしょうか。

「私は-あなたを-丸齧り-に-し-ます。」

 今度はホラー映画の怪物の宣言のようになってしまいましたが、いずれにせよここで付け加わった言葉に着目してみましょう。「は」「を」「に」「する(し)」「ます」。そうです、いわゆる〈助詞〉を中心に、自立語のぶつ切り感を補ったわけです。こういった要素を俗に「てにをは」とも言うことがありますが、日本の文法では、単語どうしのつながりをいかに適切な「てにをは」で繋いでいくか、というところに、日本語の体系性が現われます。*13

 ところが英語は、もう少し事情が違います。日本語文法における「自立語/付属語」の対応と同じくらいに、「主語(Subjective)/述語(Predicate Verb)」の対応が切実になってきます。中学・高校英語で「SVが〜」「SVOCが〜」と言われてきたものは、英語文法が特別にそうしたものを小難しく言っているのではなく、「英語においては、(命令文や感嘆文などのごく例外を除き)「SVのコンボが脱落することはありえない」という確信が可能な程度に、SVを見ぬくことが大事だからなのです。「おれさま、おまえ、まるかじり。」が日本語文法的にNGなのと同じくらい、SVは脱落させてはいけないわけです。

 しかし、SVだけでは、まだ英語の統語的特性を見ぬいたことにはなりません。もう2種類ほど重要な区分があります。

 そのうちの1つは、〈語〉<〈句〉<〈節〉≦〈文〉という4つのまとまりを抑えておくことです。

  • 〈語〉word(s):単語のまとまり。SV連関はない。
  • 〈句〉phrase(s):単語が特別な配列のもと意味を成すもの。SV連関はない。
  • 〈節〉clause(s):単語がSV連関をもつカタチで意味を成すまとまり。ただし〈文〉そのものではない(個別に取り出して1個の〈文〉になる資格は備えているが)。
  • 〈文〉sentence(s):〈語〉〈句〉〈節〉などが複数組み合わさって、意味をなすまとまり。ごく一部の例外(命令文・感嘆文等)を除き、最低1つ以上のSVの組を持つ。原則、ピリオド “.” で終わる( “?” や “!” で終わる場合もある)。

この中で特に重要なのは、〈節〉というまとまりです。節とは、たとえば when節や that節といったものが思い浮かぶと思いますが、when SV や that SV というように、直後にSVが来る、という先読みが確定するようなものになっているから〈節〉なのです。

 そしてもう一つ重要な事は、英語における〈品詞〉の意義が、思ったより文法に全面的に食い込んでいるという事実を確認することです。

少なくとも以下の4つの品詞は、(英語における)“四大品詞” と言い直してもよいのではないかというほど、重要です。

  • 名詞(n. ; noun):この世の存在・概念につく名前。「代名詞(pronoun)」や「固有名詞(proper noun)」も特殊な働きはあるが、大まかな働きはこの「名詞」と同じ。おもに主語(S)をつくるはたらきをもつ。
  • 動詞(v. ; verb):述語動詞(V)と準動詞{動名詞不定詞,分詞}を作るはたらきをもつ。
  • 形容詞(adj. ; adjective):おもに、名詞を修飾する。
  • 副詞 (adv. ; adverb):おもに、動詞を修飾する(形容詞とべつの副詞を修飾することもあるが)。

この“四大品詞”の説明をよくよく読んでいただくと、実は英語文法において、以下のような“基本的”対応が想定されていることが判然とするはずです。

品詞 はたらき
名詞(n.) Sになる(おもに)
動詞(v.) Vになる(おもに)
形容詞(adj.) 名詞を修飾する(おもに)
副詞(adv.) 動詞を修飾する(おもに)

したがって、英語というのは、まず、以下のような組み合わせが通用するものとしてイメージするところから始めるのが、とても重要です:

  • 主語-述語の関係、つまり「SV」を作るのがもっとも基本。(Birds fly.)
  • 「SV」のSに入るのは必ず〈名詞〉。
  • 「SV」のVに入るのは必ず〈動詞〉。
  • したがって、SVを作るだけなら、〈名詞〉と〈動詞〉の二種類さえ知っていればよい。
  • 〈名詞〉の意味を拡張するために、〈形容詞〉がある。〈形容詞〉は〈名詞〉しか修飾しない(beautiful clothes,形→名)
  • 〈動詞〉の意味を拡張するために〈副詞〉がある。〈副詞〉は〈名詞〉以外の主要三品詞を修飾できる(speak fluently 動←副, very good 副→形, quite carefully 副→副 など)

こうした原則がわかった後であれば、なぜS,V,O,Cといったものを使って〈名詞〉〈動詞〉〈形容詞〉〈副詞〉の4つがしばしば解説されるのか*14、そしねなぜ

  • 「動詞/句動詞*15/SV/文」
  • 「名詞/名詞句/名詞節」
  • 「形容詞/形容詞句/形容詞節」
  • 「副詞/副詞句/副詞節」

といっためんどうな区分が英文法に頻繁に出てくるのか、といったことについて、じんわり理解できてくることでしょう。

 英文法の話はこの後も長く記述することができますが、ここで一旦止めておきます。この節のまとめとしては、

  • 英語(のようなある種の言語)は、主述(SV)を基礎単位とする。
  • 英語は〈語〉<〈句〉<〈節〉≦〈文〉という区分をもち、特に〈節〉がSVを1単位として含むと見抜いておくことがとても重要である。
  • 英語の品詞のうち、〈名詞〉〈動詞〉という“SVを作る”基礎、〈形容詞〉と〈副詞〉という“SVに対して係る”修飾、という4種類の働きを抑えておくと、英文法の最初の入口には入れる(SVOCなどはその後でもよい)。*16
  • 動名形副は、〈語〉<〈句〉<〈節〉≦〈文〉のうち、〈語〉〈句〉〈節〉のそれぞれにおいて存在する。*17

 ここまで話した統語論的解説のうち、「語<句<節≦文」と「動・名・形・副」についての早見表を、註釈の方に置いておきます*18

▼2. 発展訓練(基礎の深化/拡張)

 なにごとかの言語を学ぶ、という時、はじめは「現代語」に的を絞り、前二節に述べてきたような【概念論基礎】と【統語論基礎】の2つを主軸にして、地道に理解を進めていく必要があります。
 しかし、そのうち(日本語にせよ、外国語にせよ)それだけでは、ネイティヴの知的教養にどうにも追いつけなくなる瞬間がやってきます。なぜか。ネイティヴは、現代語だけを扱っているのではなく、その言語圏が背負ってきた歴史的・地理的な“厚み”“拡がり”とでも言うべきものを自然に貪欲に取り込んだ上で、さまざまな表現をモノにしているからです。
 そのため、非-ネイティヴがそのような“厚み”“拡がり”に追いつく、あるいは日本語ネイティヴであってもその“厚み”をさらに根本的に増していくためには、どうしても「発展訓練」に該当するようなものが必要です。そしてその「発展訓練」にあたるものも、2つのカテゴリ――歴史的厚みと、地理的拡がり――とに分ける必要があります。

それに対応するものとして、

  • 2a. 通時的深化(各国語の“歴史的厚み”に対応する学習)
  • 2b. 共時的拡張(各国語の“地理的拡がり”に対応する学習)

というものを立ててみました。

▼2a. 通時的深化【言語=文化史】

 冒頭で大野晋の言葉を紹介しましたが、日本語にせよ外国語にせよ、その言葉にはその言葉が実際に運用されてきた言語圏ならではの言葉の蓄積というものがあります。たとえば、小西甚一が『古文の読解』冒頭で用意した挿話などは、そうした蓄積を無視した場合にどういう笑い話が起きるのかを顕著に示してくれています。

「プロフェッサー・コニシ。おどろきましたよ、あの時にはね。何しろ人力車でかけつけたものだから……。」
話し手は、親しいアメリカ人教授。何におどろいたのかというに、ニューヨークの舞台で人力車が登場したからである。もっとも、それだけなら、珍事とは言えないかもしれないけれど、人力車に乗って登場したのが、佐野源左衛門常世、すなわち能『鉢木』のシテなのだから、日本文学に精通している彼が眼を白青させたのも無理は無い。この能?の演出者は、常世がキャディラックで鎌倉にはせ参ずるのはおかしいから、何に乗せようと大まじめに苦心したあげく、人力車を思いついたのである。観客の多くは、なるほど日本的な芝居だと感心したらしいが、われわれだって、これと同様のことを古典の世界でやっていないわけではない。
「とんでもない」といわれるような誤解は、すべてを〔傍点〕ことばだけ〔/傍点〕で片づけようとするところから生じるのであって、〔傍点〕実際の生活〔/傍点〕を知らないばあい、どんなに滑稽な――時としては悲惨な――勘違いが大まじめで演じられるか、容易に想像していただけるかと思う。ところが、てんで「実際の生活」を知らず、むやみに「ことばだけいじりまわす」勉強のしかたが、いわゆる古文の世界では、たいへん有力なのではなかろうか。そこで、わたくしは、古文の勉強を、平安時代の生活から始めることにした。フランス文学を勉強するのに、パリの生活を知らなければ、たぶんお話にならないだろう。古文も同じことだ。
(小西 [1962, 1981] 2010: 18)*19

 言語研究の専門家・文化史の専門家からの苦言を挙げれば、おそらく枚挙に暇がなくなってしまうでしょう。ともかく小西がここで取り上げたような「勘違い」は「スシ・サムライ・ゲイシャ」を挙げるまでもなく、およそ“ネイティヴらしからぬ” 異邦人のステレオタイプとして消費されることはあっても、その言語=文化圏において本当によく知っている人、というふるまいとみなされることはほとんどありません。そしてもし、そういったステレオタイプ扱いをされたくない、と一念発起したならば、学習の目標を、その言語圏に紐づく“歴史”的来歴にも通じていく、という方面に、どうしても方針転換させてゆかなければならないわけです。

 ここでは各論をする余裕はありませんが、必要なジャンルを3つほど挙げます:

【文法史】:現代の文法や言い回しが、どのような経緯で今のような文法になったのか(標準化も含めた)その歴史的経緯についての知識。*20

【語彙史(語源論)】:現代の言葉より前の時代の言葉が、どこからやってきてどのように変遷をたどってきたのかの歴史。*21
【文化史・社会史】:その言語圏が営んできた社会生活それ自体はいったいどのようなものだったか。*22

▼2b. 共時的拡張【言説分析】

 ここで言う“共時性”というのは、第一には、時間を捨象してもなお残る空間的(地球上の土地における空間的・地理的)拡がり、のことをまず指しています。その意味で、「英語を学ぶためにフランス語の語彙に触れる」とか、「中世日本語のことを調べるために中世中国の文化史を紐解く」といった、地理的な文化交渉、比較思想のような作業が、求められてくるということになります。

 いっぽうで、忘れられがちなのが、ことばによって表されるモノの考え方(概念)それ自体もまた、現在時制において直面するさまざまな想念を通じてしばしば“共時的”に立ち現れている、ということです。たとえば「リンゴ」という言葉について、人間は「バラ科の植物であり、林檎病であり、リンゴ・スターであり、椎名林檎であり、lingo(「内輪っぽい言い回し」という英俗語)である」、というような連想をすることが可能です。
 こういうことばの働きそれ自体に着目して、私たちはことばを整理してきました。そのアプローチは概ね以下のようなものになるでしょう:

【類語論】:「概念基礎論」でも触れたとおり、ことばには語の辞書的な定義だけでなく、「実際に示している意味」の絞込、という側面があります。その絞り込みがうまくいかない時、ひとは“ヨリ適切な語彙”を探そうと努力します。その時の“意味の網目”を体系化し整理しようという試みが、類語論であり、その成果としての類語辞典(thesaurus)です。*23

【結合語論】:ふつう私たちが中学や高校などで学ぶ「英語」では、英単語以外にも「英熟語」という単位でも(つまり〈句〉の範囲でも)ある意味のまとまりを覚えることを要求されます。そして、ネイティヴにとって「自然な」組み合わせと、「ありえない」組み合わせとがあることをその時に改めて思い知らされるわけです。こうした“自然なつながり”についての言語的知識のことを〈結合語〉(collocation)と言います。*24

【人文地理学】:どちらかというと単体で意識することは難しい分野ですが、英語とフランス語の関係、現代欧州語とギリシャラテン語との関係、またインド-中国-日本語の(主に思想史的な)伝播による言語的相互干渉の歴史、など、各々の言語圏の持ち場を守ってそれぞれの文化を積み重ねてきた結果が、各言語圏の意外なところにアーカイヴされている、というようなことを知るためには、必要な観点です。また、中近世の日本人が漢文を輸入し読んでいたことの影響、近代イギリス人がフランス語を操れることの社会的位置づけ、現代中国語が現代台湾語の字体と大きく異なる理由、など、細やかにさまざまに潜むことばの関係性は、探求のタネが尽きるということはありません。

【比較言語学:ここまで来るとほとんどプロの言語学者の仕事に近づいてしまいますが、たとえば「インド・ヨーロッパ語族」などと言われるように、サンスクリット語と欧州語との文法的な関係が実は印欧祖語とよばれる仮説的な“祖語”まで遡れるのではないか、といった仮説を行ったりする研究が実際に存在します。また、ある局面において非常に簡単な規則を持っている言語が、別の局面では極めて煩雑な規則を展開している、ということもあります。こうしたことに悩まされるうちに、「ある言語Aとある言語Bとは、この点が似ていてこの点が違うな」と考えたほうが、言語というものの実態を捕まえる上で効率的になってくる場合が出てきます。多くの大学で「第二外国語」として別の言語を取ることの価値というのは、第二外国語を通じて(日本人にとっての英語、などの)第一外国語をさらに相対化し、言語そのものに共通する機能についてさらに考察を進める機会を誘発させるためだと思うと、(大学進学で第二外国語に苦しまされている学生さんなどにとっては特に)いいかもしれません。

▼3. 発語実践【入出力】{Read/Write, Listen/Speak}(※音声含む)

 上記に行ってきたような話――概念論基礎、統語論基礎、通時的深化、共時的拡張――といった話は、実のところ、「言語の実践的運用」ということを考えると、そこまでずっと専心していられる領域でもありません。一切は、これらをすべてそこそこに熟す中で、この「発語実践」のキケンな荒野に放り出される人が大半ではないでしょうか。

 それはそれとして、近年の実用コミュニケーションとしての諸言語は、4つの領域に区分されます。

  • 読むこと(Reading)
  • 聴くこと(Listening)
  • 話すこと(Speaking)
  • 書くこと(Writing)

 これらの英単語4つの頭文字を取って、R/WとかL/Sとか、まとめてRLSWなどとまとめて呼ばれることがあります。要するに、読めて、聴けて、話せて、書ける、の4つのジャンルを平行して伸ばしていかないと、その言語圏で「よく言葉を知っている」とはみなしてもらえないわけです。

 これら4つのジャンルでのそれぞれの熟達についてここで語り尽くすことはできませんが、ひとつの目安として、(熟語・結合語含む)語彙数によるおおまかな分類は有効だと思います。*25 ただこれらは、あくまで「語彙」数に対応してReading, Listeing, Writing, Speaking が “平均的に”伸びている場合であって、多くの非-ネイティヴは4分野のどこかで躓いたり、不均一に伸ばしてどこかで伸び悩んだりする、ということは普通に想定していて良いと思います。

【2000〜3000語】。その言語圏における“日常会話”をそつなく熟すために概ね必要な言葉を知っていること。また最低限の平叙文・否定文・疑問文などを操れること。ベーシックな各国語単語辞典や、中卒水準の英語がこのあたりを目安にしている

【4000〜6000語】。その言語圏における“主張”や“作業”(電話対応、対面のやりとり、をそつなくこなせるだけの語彙を知っていること。また場に適した適切な言い回し(=「ストック・フレーズ」)等がある程度操れること。

【8000〜12000語】。その言語圏における“論説”や“専門的コミュニケーション”をcatch-upしていくだけの語彙を知っていること。また、新聞や雑誌等で報じられる現代的なトピックを原文で読めるだけの背景知識・文化教養が一定度以上備わってきていること。

【15000〜25000語】。その言語圏におけることばのエキスパートに準じてくる水準。少なくとも専門分野の論文や書籍については闊達に読みこなすことができ、その専門分野についての活発な討議に関与することができるようになっている。またその言語圏の歴史的・地理的な来歴についてもかなりのところまで習熟している。

【30000語〜】趣味や非-ネイティヴの範疇を超えて、その言語圏に関する専門家の領域

このあたりの議論については、TOEICの学習段階と実用英語能力との対応関係を論じた清涼院流水の論も参照してみてください。

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また、日本人が不得意な発音の議論や訓練手法に関しては、こうした本も出ています。

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*1:[asin:448006270X:detail][asin:B00LP43Z34:detail]

*2:伊藤和夫『予備校の英語』研究社,1997.

*3:[asin:4560049882:detail]

*4:

*5:[asin:4043260024:detail]

*6:

*7:[asin:400600253X:detail]

*8:以下の記述を参考にした:[asin:4469212342:detail]

*9:

*10:どちらかというと、日本語では後述する語連結において形態素の要素が働きます。たとえば「叩き込まれる」と言う熟語は「叩く」「込む」「(さ)れる」という3つの語の連結で構成されます。英語の語幹と辞の関係はこれにヨリ近いです。

*11:MacOSX内蔵辞書として収録。

*12:ちなみにこの違いについて、a.のアプローチを〈内包的定義〉(条件的定義)、b.のアプローチを〈外延的定義〉(列挙的定義)と言ったりもします。

*13:

*14:煩雑な説明になるので註釈に回しますが、名詞は「S,O,Cになること」、形容詞は「C」になること、が重要になります。さらに準動詞のうち、動名詞は「動詞でありながらS,O,Cになれる(つまり名詞とほぼ同じ位置づけになる)、不定詞は「名詞/形容詞/副詞どのポジションでも働く」、分詞は(現在分詞にせよ過去分詞にせよ)「形容詞と同じ働きをする(名詞修飾が可能、そしてCにもなる)」ということを含めて、ようやく〈名詞〉〈動詞〉〈形容詞〉〈副詞〉の条件的定義が一通り終わることになります。なおこの場合のS,O,Cとは、それぞれ〈主語〉〈目的語〉〈補語〉(Subjective, Objective, Complement)のことです。

*15:群動詞とも言う。動詞を核としながら、周囲に前置詞その他が色々紐付いてひとつの意味をなしている熟語群のことを特にこう呼ぶ

*16:特に、SVを「つくる」、SVを「修飾する」という、主従関係を抑えておくのは極めて重要です。

*17:つまり句のまとまり、節のまとまりにおいても、「名詞的(主語/目的語/補語のどれかとして読める)」「形容詞的(=名詞修飾的)」「副詞的(=名詞以外の何かを修飾)」というのは存在する。特に節のまとまりですでにSVの要件を満たしているものはある、と見なければ、SV,SV,SV,SV,... という流れで、大きな「一文(one sentence)」を織り成しているような種類の文に、いつまでも圧倒され続けることになります。しかし、ここに書いてきた統語論基礎の話をしっかり復習し続ければ、その圧倒的な情報の波に押されず、いつか必ず立ち向かえるようになります。【語句節文】×【動名形副】の組み合わせがいかに英文を作っているか、丁寧に考え続けることが、英文法の根本に関わる作業であると、2015年07月現在の私は信じています。

*18:f:id:gginc:20150728084212j:plainf:id:gginc:20150728084216j:plain

*19:

*20:日語であれば古文法、英語であれば英語文法史の概説書がこれに中たる

*21:日語であれば『日本国語大辞典』、英語であればOxford English Dictionaryをはじめとする語源に関する言及が含まれる各種辞書。また欧州語については、古代ギリシャ古代ローマ、中世イタリア、中世フランス、中世ドイツ、などを経由して中近世の英語が徐々に形成されてきた経緯があるため、地理的な条件も含まれる。

*22:これはむしろ語学の書籍というよりは、地域史の歴史概論などに触れる必要が出てくる。ただし、総説的な歴史ではなく、中世〜現代にかけての文化史や社会生活史など、その言語圏ならではの風俗がよくわかるようなものを選択するのがよい。

*23:英語ではRoget's Thesaurus、日本語だと『角川類語国語辞典』などがあります。[asin:0061715239:detail]

*24:結合語・コロケーションについては、英語であれば最近出た『オックスフォード英語コロケーション辞典』のほか、『新編英和活用大辞典』などがあります。また日本語では、コロケーションに関する研究が進んでいませんでしたが、助詞を主とするつながりをデータベース化した『てにをは辞典』が最近、日本語版のコロケーション論を体系化した試みのひとつとして脚光を浴びています。(([asin:4767410355:detail][asin:4095110155:detail]

*25:この種の「語彙を基準とする言語習熟度のグレード」に関する底本をがどれだったかは、申し訳ないことに忘れているのですが、思い出したらここに補注します。