In November
18日の朝に大雨が降り、それがそのまま今年の、この街の初雪となった。
雨に降られつつ地下鉄に乗り、市街地で高校の先輩と待ち合わせて、『すし善』と『きのとや』を巡り、互いの近況報告と、ほんの少し先の未来の話をした。それから夕方になって、三年前にストーカーによって殺害されてしまった後輩の“現場”へ、献花をしに行った。命日より一日前だった。今回はこのためだけに帰省したというわけではないが、家族への近況報告とついでに日取りを確保してしまいたくなるほどには、重要な儀式となっている。もうひとつ、ご遺族の方に挨拶に行くことも考えてはみたが、今年はあまり沢山の話をできる自信もなく、特にこちらから連絡をすることはしなかった。
すでに事件の裁判は終わり、受刑者は2026年ごろまで出てこないことが決定している。しかし、この死に関わる整理を自分の中でつけようとすればするほど、ありもせずまたしたくもない「語り手が何らかの意味での代表を気取ること」を引き寄せてしまい、それが我ながら鬱陶しくて思考を止めてしまう。あくまで個人的な範囲内でしか、このことについて考えたくないのだ。
それでもその作業は、繊細な手つきを個人に要求してくる。
そして作業は、いつだって失敗してしまう。
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死者が死んでしまったからこそ思弁の対象でありつづけているのか、それともそのまま生きていたとしても同じような対象でありつづけたのか。それが兼ねてからのひっかかりだった。
たとえば、数年前に夭折した作家である伊藤計劃は、べつに(少なくとも自分にとって)「死んだから、」優れた作家として世に再規定されたわけではない。しかし、伊藤計劃が死なずに作品を書き続け、もしかしたらつまらない作品を書いていたかもしれない未来は、待ち構え許容しようにもう決してやってこない(そう、屍者については、傑作を待望することとおなじくらい、「つまらない作品を書いていたかもしれない」と想起することが重要だ。)どうしても、死によって凍結してしまったある個人の可能性について、さまざまな余計なものを、屍者の幽霊に対して、ゴテゴテとこちらがわからなすりつけてしまいたくなる。
他人のくだらない愛欲のせいで死んでしまった2つ下の後輩の女の子は、自分にとって、ほとんど伊藤計劃の死と同じような、その後生産されたかもしれないし生産されなかったかもしれない、そんなどちらにでも転べる生がありえた可能性の断絶を、突きつけ続けている。
直接的なかなしみは、(おそらく、他の誰もがそのような傾向をもつように)時の流れの中で、あるいは自分自身が拙劣な手つきでどうにかこうにか生きてゆかなければならない情けなさとの釣り合いを量る中で、当初の質感と異なるものへと徐々に変容してゆく。けれど一方で、変質したそれは、直接的な負の感情がとめどなくこみあげてきた頃よりもむしろいよいよ鋭さを増して、鮮明な、記憶としての純度を高めていく。僕が先輩とともに“現場”を訪れて感じたのは、なんらかの方向に純化していこうとするその記憶のありようについてだった。
彼女の可能性はどうしようもなく凍結してしまった。しかし、強制的に凍結されてしまったその理不尽によって、彼女のもっていただろう未来の可能性は、過去の記憶の幽霊としてべつの居場所を獲得する。経験された不完全な記憶をもとにエミュレートされつづける幽霊が、生活の端々で顔をのぞかせ、僕の思弁を促す。
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死んだから思い出すのではない。死んでしまう前から、貴方は僕にとって、折りにふれ思い出し続ける対象となっていたのだ。
けれど貴方は、わからなくなれば直接尋ねられる存在でなくなった。逆に、貴方にとって僕が reference として利用されることもなくなった。fragile な参照関係が、片側の縁で永遠に凝結してしまった。
凝固した死は、それでもなお参照され続ける。少しずつ純粋な記憶となってゆく。
そしてそれは、ほんとうは、まだ生きている貴方たちにも、僕が日々やっていることなのだ。貴方が偶々、生きてくれているから、まだ死んでおらず返事を返してくれるから、凝固しないで済んでいるだけなのだ。
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東京で出会った二人の知り合いが夫婦となり、子を生んだ。子の誕生日は、命日の二日前だった。
理不尽な死の記憶が寒々と鎮座し続けていた11月に、祝福されし11月がひとつ折り重なり、寒々しい季節の印象をひとつ、塗り替えてくれた。死や生にどれだけ他人の悪意や悲嘆が関わろうと、そんなことをなにひとつ知らずに新しい人間は生まれ、掛け値のない祝福を浴びる。
それでいいのだと思う。